1956(昭和31)年12月2日(日) 九年ぶりの旅4
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夜はみんなの眠るときだ。だれもがベットに横たえて夜行列車の朝を迎えるようになるのは、いつのことであろう。でも、ここで、寝台車は金持や一部の特権階級の占有物であってはならないなどとひらきなおることはやめにしよう。
窓の外には四日の朝が来ていた。駅の名を呼ぶ駅員の声がガラス戸のむこうからひびいて来た。もう起きだした人の毛布をたたんでいたボーイさんにたずねると、ここは東松島で、この列車は塩釜を通ってきたのだという。海のそばらしい堀割に小舟がいくつももやっていて、人影は見えなかった。細かい雨が降りしきっていた。
水田風景がひらけてきた。稲はすっかり刈りとられて、稲の塚がしょぼしょぼと展望のかぎりを立ち並んでいた。二年つづきの豊作とやらも、ながめには何かさむざむしかった。農民というものが思われた。
やがて、もみじした幾つかの丘を送り迎えた。なつかしいというよりも、むしろわびしげだったのはいましがたの愁傷に似た気持がまだ尾をひいていたためかもしれなかった。
トンネルを出ると、まもなく一の関であった。駅の時計は七時二十分をすぎている。プラットホームで“南部名物”とうたったそばを食べた。口なおしに、大福餅を二つ食べ、牛乳を一本のんだ。汽車に揺られながらよく眠れたからであろう。うまいまづいは別としてこの食欲はうれしかった。肩も軽かった。「これでいい。大丈夫だ何しろ、子どものころからかいたからだだからな。五百キロや六百キロの汽車にへたばるはずがない。」
そばに家の子たちでもいたら、さっそく自慢したことでもあろうが、せっかく自信のほども、口のようなわけにはいかなかった。帰りの汽車が心配で、またしても寝台券を求めに、駅の事務所へ行った。七日のも八日のも売切れであった。交通公社へ電話し、八日の午後九時のをあっせんしてくれた駅員のとりなしがありがたかった。
気仙沼へいく汽車は九時三十一分発であった。二時間以上も待つのでは、急行も準急行も時間的にはほとんど無意味だが、どうもしかたがない。でも、以前は三時間余りもかかったのだが、二時間たらずにスピードアップされたのは、そこにどんな事情や理由があったにしろ、喜ばしいことにちがいなかった。十一時半ころの気仙沼は雨がやんで、ひろがっていく青空に太陽がまぶしかった。
出迎えた身うちの者たちと白い巡航船に乗った。埋立地にできた近代風景は日本一とかの魚市場だという。対岸の造船所には働く人びとの姿が望まれた。亀山を南東にして、船はかき棚の間を進んだ。
浦の浜には弟夫婦に子どもたちや親類のものが待っていた。はじめて見る兄の孫たちもいた。
田中浜に出た。波が寄せていた。生きている波を見ることも九年ぶりにちがいない。引きあげられた小舟に腰をおろして、透きとおるような波の縁に見とれた。唐桑の御崎の沖を、汽船が北へ進んでいった。
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