1956(昭和31)年12月14日(金) 九年ぶりの旅6-2
研究討議がはじまった。司会の近藤校長は長老の坐りであった。限られた時間を急ぐでもなく、たくみに議事を進行した。ことばのはしばしに、かれ独特のアクセントがあった。
プログラムは“講演ならびに指導講評”に移った。県教育委員会の高橋指導主事と東北大学の畑中教授と文部省の鈴木事務官が、つぎつぎに立って見解を述べ、所信を披瀝した。聞いている片っぱしから忘れてしまったが、よい話だと思った。テープレコーダーに録音しておきたかった。
雨になった。土砂降りであった。他校の人びとはかさやこうもりに身を寄せ合って帰りを急いだ。ゆかりの深い浦島小学校の子どもたちにと、わたしの書いた本を二冊ほど、松井校長に頼んだ。
講堂は中学校の校歌制定後援会の場に変わった。菊田支所長の司会で話しあいが進められた。またしても作詞者が紹介されるのは閉口した。四冊や五冊の教科書に作品が用いられたところで、それが何であろう。ほんのささやかなことが、人びとの心に実像以上に投影されることが、わたしにはむしろ恐ろしい。もとはといえば、ひとにぎりのわたしにすぎないのだ。
このとき、小山唐桑中学校長の昔がたりはありがたかった。わたしがかれに東京へ行く旅賃を借りたことがあるというのだ。わたしはすっかり忘れていた。そうだったかと苦笑した。かれが仙台の片平―小学校に勤めていたころ、どんなにかれの友情に身を浴びたことか。―よい時代であった。
後援会は誕生した。目上の方や知人や旧友たちや百人をこえる人たちに、わたしは、いちいちあいさつをして回りたかった。膝を交えて語り合いたかった。小学校で同級の菊田豊さんが立ってきてあいさつしてくれたが、はじめ、誰ともわからなかった。おそらくこの再会は三十数年ぶりででもあったろうか。長男は大島小学校の教師をやっているという。小野寺一郎さんは同級会を開きたいといった。小山氏もわたしも、直ちに賛成した。時期は旧の正月が約束された。
菊田支所長やPTAの白幡氏など十人ばかりで歓迎会が催された。思わず盃を重ねた。小松校長に招かれて、雨のなかを数人でおしかけた。夫人が風邪の床から起きてきて、酔っぱらいたちをもてなした。
やがて、迎えに来た弟と八尺に両方をささえられて生家に帰った。せっかく餅をついてくれたが、雑煮を一つがやっとであった。そこへ酒の席を同席した村上教頭がどうなったかと心配してやってきた。はげかかった頭に汗の玉を光らせながら、しきりに気焔をあげていた。まじめな男だ。
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