1956(昭和31)年12月20日(木) 九年ぶりの旅7-2
鈴木軍太郎氏がやってきた。これが路上でも会ったのなら、お互いにそのまま行き過ぎたであろう。しばし顔を見合って、少年の日に視点を求めていた。かれの勤勉と努力はその家をより豊かにしたがPTAの会長としてもかなりの業績をのこしたという。持参のカキはむきたてで、新鮮な味と香りがたまらなかった。鉢から皿にうつしては食って、飽きることを知らなかった。水産学校の同級が四人になって、話題はそのころのわたしに集中した。自分ではそれほどにも思わなかったが、ずいぶん変わった人間に見られていたらしい。引き合いに菅野青顔の名が出されたりした。まだ見ない菅野氏に会いたくなった。
“岩井先音頭”が近郷に行われていることは耳にしていたが、わたしはまだ聞いたことがなかった。この作詞を近藤氏に頼まれたのはもと日比谷の角にあった美松というデパートのおくじょうで、日比谷公園を見おろしながらのことだったという。わたしは原稿もどこへいったか分からなくなったが、昭和十年の同じ時に書いた”岩井崎小唄”とならべられた印刷物によるとどちらも佐藤長助氏の作曲であった。
昭和二十二年の八月に、仙台中央放送管げん楽団を招いての発表で、振付は藤間素東儀という名の日野時子さんが心魂を注がれたとか。ずいぶんとにぎやかな扱いを受けたものだが、今から見れば、用語にも適切を缺く幾つかが散見されたし、何よりも発想の根底にあきたりのものがあった。ともあれ二十年も前に書いて忘れていた自作にめぐりあったことは、時が時だけに、感情に切実なものがあった。
階上中学校の藤田岩雄氏が生徒に歌わせてテープレコードに録音してきたが、自転車にのせてきて器械のどこかがゆるんだとて、せっかくの好意を聞くことができなかった。で、松岩中学校の小野寺瑞夫氏に歌ってもらった。この人は、うちの八尺と水産学校が同級だったという。美しい声であった。われわれも、それについて、手を鳴らしながら低唱した。
さんさしぐれに、アリアサ、
鴎も寝てか、コーヤサ
わたしやおもかげ
胸におもかげ、ナア、気仙沼
それっしよんがいな
盃のめぐりもしずかに、夜は更けていった。
コメント