1956(昭和31)年12月27日(木) 九年ぶりの旅9
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マッチ箱を並べたような街並が朝の光に見えてきた。東京と名のつく圏内へはいったのだ。あたりは灰色にくすんで、太陽もどんよりしていた。おしつけられるような気持で、上野駅から山手線に乗り換えた。
中央線は急行の時間であった。下り電車に運ばれて小金井に帰った。野の色が目に親しかった。子どもたちは勤めや学校に出かけて、中学二年生の玄彦だけがまだ家にいた。小学二年生の兆彦は、私が帰ったことも知らないでもう学校に着いたころか。八時近くの台所で、家のものは食事のあとをかたづけていた。
九年ぶりの旅は九年ぶりの家郷であった。これがまだ見ない北海道や九州であったらどんなものかと、いまのわたしにできそうにないことを夢想したりもした。が、そんなものにかかわりなく、新しいものがつぎつぎにわたしに飛びこんできた。多くの人たちとの新しい人間関係がはじめられた。感情の整理もできないうちに、別の要素と条件がおし寄せてきた。カキむきの様子も見られなかったし、海水浴ににぎわう小田の浜はおろか、幼い日に遊びほおけた浜へもおりて行けなかった。
わたしは、家いえの生活をのぞきたかった。その実体を知りたかった。子どもたちの生態にもじかに触れたかった。が、それは欲ばりすぎるというものであろう。島ではさつまいもを掘り、麦を蒔いていた。あわただしい時間のなかで、牛乳配達と肥桶をかついだ女の人に会えたのがまだしもであり、生家のうまやで、人間の動きをながめていた馬の大きくうるんだ目が印象的であった。
帰ってから二ー三日して、鉄道弘済会から毎号送ってくるグラビア刷りで八ページの“あすなろ“十二月号がとどけられた。床のなかで封を切ってのぞいていると、詩人の佐藤さち子さんの“追憶のなかの旅“という文章が目についた。
「……気仙沼の対岸にある尾崎岬の海水浴を沸かす温泉宿、湾内の、子供たちが裸足で学校へ通っていた大島という島など、幼い日に母に伴れて行ってもらったところを廻ってみたいのが、わたしの夢の一つになっている。宮城県の北端にある私の町から気仙沼に行く時などは、荷馬車をたのんで幌をかけ、夜を徹しての旅だった。いまはバスがあるようだけれど、私はやっぱり荷馬車に揺られて山をいくつも越えてみたい。」
時にとって、この一章はなつかしかった。が、大きな歴史の流れのなかで、気仙沼地方も変貌を続け、脱皮をかさねていることは、巡航海を激しくゆさぶっていくサンマ船のエンジンのひびきからも感じとられた。(おわり)
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