1957(昭和32)年12月6日(金) 小金井手帳(上)
(上)
ーーブジツイタ、クモヒトツナシ、リョウコ。
だしぬけに、岩手県へ行ってきたいといいだし、ゆうべ、ひとりで上野をたった三女から、千厩発の電報がきた。こっちは快晴の十時半ころだった。
ほっとした。早いものだと思った。その間に、わたしは何をやったろう?ことが身近で具体的なせいもあってか、反省に似たものが、ふと心をかすめた。
うちでいう“岩手県”は東磐井郡の奥玉村の佐野さんのお宅のことで、戦争のころ、気仙沼に移り住んでいた家族の胃ぶくろのために、林の中のさびしい路をあてもなく分けいっていったのが接触のはじまりであった。以来何かとお世話になったが、九年ぶりに大船渡線を旅した去年の秋も、芥川也寸志夫妻と大島中学校校歌の発表会に臨んだ今年の四月にも、ひとかけらの敬意さえ表すことがなかった。ひっそりと、あじけないかぎりであった。
この奥玉村も、先ごろの町村合併で千厩町になり、今はバスも通っているという。そのことを教えてくれた鈴木さんは、同じ沿線の松川から近ごろこしてきたというから「世の中は広いようでも狭い」というわけだろう。そういえば、気仙沼出身で国際キリスト教大学の教授をしている大内氏も、すぐ近くに住んでいられるという。が、わたしはまだ一度も会っていない。さしずめ、これは「近いようでも遠い」ということになるかもしれない。
さて、出迎えてくれるように佐野さんへ電信してはおいたが、うまく会えたかどうか。
おもてでは、電信工夫たちが、黒い塗料がしたたりそうな電柱を“勤労感謝の日”の青空へおし立てている。今までのよりも太く、一メートル以上も高いものにしたのは、わけがあってのことだろうが、うちの垣根のそばにも、油ぎった一本ががっしりとそびえたった。近代風景にしてはあまりにもわびしいが、いろいろな理由からして、これ以上はどうにもならないのだろうか。健康な工夫たちは、無表情に、光をもたらす仕事を続けていく。
(詩人・大島出身)
コメント