1961(昭和36)年8月24日(木) 小金井手帳3
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私が歌人熊谷武雄の名をはじめて知ったのは、水産学校のころ、一年上の伊藤武君にもらった二冊の「詩歌」からであった。何度か読み返されたらしいバックナンバアではあったが、表紙を開くと、第一ページの余白に“鈴木勝代の君”“武雄”と献呈の文字が筆で書かれ、雅致というか、風格というか、少年の目にも何か独自な書体であった。
「詩歌」は前田夕暮の主宰で、発行所の白日社は、それが結社の名ででもあったろうか、巻頭はいずれも熊谷大人の作品で、和田山蘭とか、米田雄郎とか、金子不泣とか、そういった作家が名を連ねていた。
短歌のほかに山村暮鳥の象徴な詩や竹友藻風訳のイギリスの詩などがかなりのスペースを占め、「室生犀星氏」と題した室生犀星の文語調の詩は、作品よりも先にそのタイトルが目を見はらせた。タゴールの詩や萩原朔太郎のエッセイなども載っていたように思う。
鶏は悲しき鳥よ蒼空を永遠に忘れて地を歩める
蒼空を永遠に忘れし鳥として鶏よ汝が悲しき翼
その二冊で読んだ大人の作品のうち完全なすがたで思い出せるのはこの二首くらいで、「おごそかなりやわが立てる岩」と結ばれた歌は上の句が思い出せない。潮にもまれて乱舞するあらめを描いて生命観をたぎらせた景観もあったし、尊父がこよりを羽織の紐にされたことを扱った連作を読んだのも、この二冊からではなかったろうか。そういえば、
ちちのみの父と相寝て父にのみわかる言葉をわが 稚児はいふ
こんな歌もあったように思うが、記憶は甚ださだかではない。字句にも違いがあるかもしれない。とにかく全体として、自然観照というよりも人生派的もしくは生命派的なものに感じとられた。
これは、菅野青顔同人が三陸新報の「万有流転」などでしばしば回想し愛誦する歌集「野火」のあとだったから、一代の円熟は転機を求め、新しい視野と方向に触手していられたことを示すものではなかったろうか。
とにかく、このような歌人が新月村の人であることを知った驚きは、さきに落合直文が松岩村の出であると知らされたよりも、それが身近に生きている人だけに、より切実なものがあった。
同じ新月村の産で同級の吉田潤蔵君にきくと、大人は常に農業にいそしみ村会議員なども勤めているという。まことに巨匠熊谷武雄は特別にしつらえた世界に住んでいるのではなかった。草を刈ったり、麦を蒔いたり、正月には餅をついたり、あたりまえの生活をあたりまえに生活しているのであった。ただの新月村の人であった。が、ただの新月村の人がただの新月村の人ではなかった。国文学者で歌人の落合直文が中央で名を成したのとは対しゃ的に、一介の農民として産みなしているのであった。
大正七年であったか、それともその翌年であったか、熊谷武雄の名を知ったことは、知ることの少ない私にとって、その年一番のニュースであったろう。
以来四十年余りを、二冊の「詩歌」は私について離れなかった。大島を基点として、鹿折へ、歌津へ、東京では砂町へ、船堀へ、立川へ、小金井へ、終戦の後は埼玉県所沢へ、それから二度目の小金井へと流浪が続き、船堀では数回も居を変えたが、すっかり忘れていると、行季の底などからひょっこり出て来て、改めてページをめくらせた。ときは「またか。」と疎ましい気持のすることもないではなかったが、やっぱり整理し難かった。
児童文学の研究家や学生たちがしきりに求めている前期の「赤い鳥」も何十冊かあったはずだし、「金の星」とか「童話」とかいったものも、どこへどうなったかわからない仕末なのに、もはや表紙のとれてしまった二冊が手元から消え去らなかったのは、少年期の感動がうちにはたらいていたからでもあったろう。
ところが、数年前のある日、もろもろの本や雑誌といっしょに、思いきってくず屋に払い出してしまった。どれも取って置きのものばかりで「日本詩人」なども二十冊くらいはあったろう。
過ぎ去った日へのやりきれない気持もないではなかったが、子どもたちが大きくなってくると、たとえ安物でも一つ二つと衣類などもふえて古い物の整理を余儀なくされ、しぜん押入の奥へ手が伸びていったというもので、いわば物理的な理由がそうさせたのだといえよう。
あとで、詩集や詩の雑誌なら何でも求めている店があることを何かの広告で知って、くちびるをかんだが、もう後のまつりであった。「高価買入」もさることながら、そんな店へ売っておいたら、私の所蔵にもまして人の世の役にも立ったろうし、でなければ、図書館に寄附するとか、然るべきこじんやだんたいにおくるとかいう方法もあったものをと、自分のうかつさが深く悔やまれた。 (一九六一・七・二三)
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