1961(昭和36)年10月22日(日) 小金井手帳7
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三百年の伝統をもつといわれる小金井の栗が、この秋は十年ぶりで、かなりの収穫が見込まれているらしい。
といっても、必ずしも豊作というわけではなく、先年、クリタマバチが発生して壊滅状態になったので、虫害のほとんどない“利平”とか“銀寄せ”とかいう品種に切替えたのが成木して、相当のみのりをみせるようになったということらしい。それに作付面積は約三十ヘクタールで、ひところの半分にすぎないとか、生産の数字とは別に、これも時勢の推移をかたるものであろう。
いわゆる“小金井栗“の起原は、押立村の名主・川崎平右衛門が幕府の命によって、延享四年(一七四七)に三万六百坪を栗山と定め、甲州の山梨郡その他から栗の実や苗木をとりよせて植えつけてからで、十ヶ新田ー境新田・関野新田・田居新田・井口新田・大沢新田・野崎新田・梶野新田・関前新田・保谷新田・小金井新田の百姓が動員され、栗林の世話は南武蔵野四十ヶ村が受持つたという。そして栗の実が熟すると、粒のすぐれたものを選んで袋につめ「御用栗」の旗を押したてた馬に積んで江戸に送ったというから、その行列はにぎやかで威勢のよいものに、はたの目には映ったろうし、だからヒロイックな若者たちを勇み立たせたであろう。が、こうして将軍家に納めた残りを百姓たちに分配して扶食の補いにしたというのだから、幕府の直轄地ー天領の民の労苦もひととおりではなかったろう。
それに、明和年間にも寛政年間にも苗木の植え継ぎをし、嘉永五年(一八五二)には虫害のために栗の木を切ったこともあるなど、あれやこれや、「名産・小金井栗」の歴史も、その滋味の奥には渋皮の層の深いものがあろう。
もともと、八代将軍吉宗の享保(一七一六)からはじめられた幕府の武蔵野新田開発にしてからが村請新田という方式で、百姓がおかみにお願いして土地の割当てを受け、それを自力で開墾したもので、これを小金井新田の場合についてみると、名主は七反、本百姓は四反、小作百姓は二反ときめられていた。そして開墾の費用はおかみから借りるよりほかに道のないおたがいであったから、名主級は別としても、働いて働いて働きぬくことをよそにしては、生きるためのどんなてだてもあるはずがなかった。
それに、元文三~四年(一七三八)には新用地帯は飢饉におそわれ、代官上阪安左衛門の救助米の配給や前期の川崎平右衛門の救済を受けたというが、それにも限度があったろうし、近隣同志の反目を憎しみにまで発展させた例も少なくはなかったろう。飢餓にまつわる悲話や伝説は、今もいくつか残っているようだ。
ともかく、その栗山も明治になって廃止されたというが、私の住んでいるこのあたりは通称を今も栗山とよび、数年前まで栗山会という町内会があった。
なるほど一~二反歩くらいの栗林は近くにいくつかあったが、移りたての私には“栗山”というよび名はすなおに受けとれなかったし、大字の“十ヶ新田”に至っては、どうにも意味のわかりようがなかった。
そういえば、小字の“栗林”は町名が改められて“東町四丁目”ということになったが、バスの停留所は以前の名を用いているようだ。しかし、そのあたりには栗の木など数えるほどもあるまいし、あったにしても民家の庭などに植えてあるくらいが関の山であろう。
そのように、私どもの目にふれるほどの林はおおかた切り払われてつぎつぎに住宅が建ち、様相は日に日に変わっていくが、小金井全体として見れば、在来の家の周辺など随所に相当の数が残されており、ある旧家ではいがを乾して山積みにし、これをふろに焚くのだといっていた。七八年前に、私も栗の苗木を三本ほど、土地の人に頼んで家の東側に植えてもらった。桃栗三年というが、まことにそのとおりで、ちょうど三年目かに、つややかな実がいがを割ってこぼれ落ちてくるのには驚きもし、それが大きな粒だけに喜びもひとしおであった。
物置をつくるためにあとで一本は切ってしまったが、残りの二本はクリタマバチにやられ、病気の小枝を切り取られながらもよく耐えて、年ごとにかなりの収穫をもたらした。
ところが、ことしは青いいがが小さいうちから落ちて、残りはいたって少ないようだ。みのりを天に仰いでばかり、足もとの手入れを怠ったからであろう。
ことしの冬は、根のまわりにたっぷりと肥料をくれてやろうと思う。栗の木だけでなく、一本ずつの梅にも桃にも巴丹杏やタワラグミにも、そして三本の柿の木にも、十分に栄養をほどこそうと思う。
(一九六一・九・一一)
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