1963(昭和38)年4月13日(土) 小金井手帳8ノ2
8ノ2
惜しいかな、十五年の五月、一日中走り回った銀さんは急性肺炎でたおれ、医師の治療や周囲の人たちの祈りも空しく、一週間後に息をひきとった。四十五才の若さであった。
この年、ひいき客の岩村中将の肝いりで銀さんをしのぶ碑が建てられたのだが、その碑はどこへいったか?
ところが、それから数日して碑が見つかったことが報道された。碑は去る三十年の踏切拡張工事で、銀さんゆかりの小金井第一小学校ー元の小金井小学校の東門のそばに移されたが、こんどはプール新設工事のために、一昨年三十六年に西門のそばへ動かされたという。
以来、私はその碑を見たいと思いながら、なかなかその機会が得られなかったが、数日前、所用で出かけたついでに、第一小学校に寄ってみた。
それは高さ一三○㌢㍍、幅六〇㌢㍍厚さが一〇㌢㍍ばかりの粘板岩の板碑で、いただきはかまぼこ型に円かった。上部に“領徳碑”と右横書きに刻まれ、「君ハ一介ノ車夫ナリ、而モ其人トナリ温厚篤実、常ニ善事ヲ行フヲ以テ無上ノ悦楽トナシ……。」といったカナ交じりの文語文で人柄と善行をたたえ「昭和十五年七月、有志者一同」とあって、撰文や筆者の名は省かれていた。
それが何代目かの校長の胸像と其の領徳碑の二基が並んでの静かなたたずまいは、あるべき所にあるべきものがあるといった感じであった。
春の休みの校庭には、何人かの子どもがボール投げなどしているばかり、すぐ前の二十五㍍六コースのプールには水がたたえられて、明るい春の空を映していた。
その足で、わたしは武蔵小金井駅へ歩いた。
駅長さんに聞くと、甲武鉄道の中部と八王子間が開通したのは明治二十二年の四月だから、それが次第に西は甲府の方へ、東は東京駅の方へのびていったものであろう。新宿駅はできたのは明治二十三年九月だという。
甲武鉄道が中央線と呼び名が改められたのは、明治二十九年に国有鉄道法が公布されてからでもあろうか。武蔵小金井駅が開業したのは大正十五年一月十五日で、現在の乗降客一日平均十万人くらいとのことであった。
一歩駅を出ると、人力車ならぬハイヤーが南口にも北口にも陣列を布き、踏切の遮断機が下りると、たちまち何十台もの車がつながり、通行人がひしめいて、互いににらみ合うような形で、いらいらと目の前のケーブルがあがるのを待っている。こんな状態では、いかな領徳碑でもかえりみるいとまがないし、まごまごしていたら、交通の妨げにもなり、事故をひき起こすことにもなりかねないであろう。銀さんの碑の流転も、しょせんは時勢の力を止むを得ないことで、さやかな個人の善意が踏みにじられたというわけではあるまい。
それがあらぬか、三つの会社のバスがのたうち廻っている北口と広場のロータリーには、高さ三・三㍍の御影石に「世界連邦平和宣言都市」と湯川秀樹博士の筆跡を刻んだ記念塔がたち、その上には等身大の女性像がブロンズの裸体の右手を下腹部にあて、左手は頭にのせていた。それは世界平和と人類の幸福を象徴するポーズでもあろうが。
除幕式が行われたのは去年の十一月十八日だというが、果たしてどれだけの人がこの塔に注目し、思いをひそめるものだろう。そんなことを考えながら帰りのバスを待っていると、人や車の往き来の絶えた深夜の空に月の光を浴びてたつ美しい裸像が、映画か何かの画面のように瞼に浮かんできた。
ー一九六三・四・三ー
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