1963(昭和38)年5月24日(金) 小金井手帳⑫
⑫
去年の春、うぐいすの声もひばりのさえずりさえもついに聞けなかったことを、私は嘆くような調子で短文に綴った。もうこのあたりで野天の声は聞けないものと観念していた。
ところは、今年はどうだろう。三月の初めからうぐいすが隣のしげみで鳴き、中旬からはひばりがしきりにさえずりをあげたではないか。それもすぐ二十㍍ばかり先に二階屋が新築されて、畑地は更に狭くなったというのに、なつかしいひばりの声が、かすんだ空からふりこぼれてきたのだ。ある朝はうぐいすとの二重唱で、畑地の上を旋回しながら天へ昇っていく姿をまざまざと見せつけられた。驚きでもあり喜びでもあった。
しかし、天へ昇っていくといえば聞こえがよいし、またそれに違いないのだが、あの全身をつばさにしての稚拙でたどたどしい飛びざまはどうしたことだろう。ひばりは自分の巣のありかを他に知られまいために、飛びたつにも地におりるにも意を用いるというが、あんな調子で上空まで昇っていくものだろうか。
同じ虫を捕るにしても、つばめのように地面と平行に直線的に突っ走っていくものもあればひばりのようにゆるやかに天空を目指すものがあるなど、自然はよくしたものだと思う。
ほととぎす鳴くやひばりと十文字
つばめとほととぎすの違いこそあれ、蕉門の未来に既にこんな句はあったが……。
鳥といえば、近所できじを飼っていて、ときどき、だしぬけに鳴くのにびっくりさせられる。「きじはけんけん」というが、このイギリス種とやらはそんな清澄な音ではなく、長くは鳴かない。「げえつげつ」とふた声でやんで、あとはひっそりとする。
ときには驚かされもするが、先日の雨続きには、晴れの予告というわけではなくとも、何か心に安らぎを覚えさせるものがあった。きじの声は雨の日とよく調和するーーそんなふうにも思われた。
うぐいすのほうほけきょうはそれこそ玉を転がすようで、自分の声に聞きほれているかのようにも思われるが、近所のきじの分裂音は木で鼻をくくったように素気ない。しかし、ある人には枯淡な風趣とも受けとれよう。
畠山は春まだ浅しうすづけば海にひびきて鳴く雉子あり
これは大島小学校長の斎藤文夫氏の作で、去る十五日付の三陸紙で拝見した「島の浅春」のなかの一首だが、同じころに「大島歌会詠草」が二日にわたって掲載されていた。作者の“信亮”が岩井信亮氏なら“竹義”は小野寺竹義氏で、ほかの各位はより若い人たちであろう。
大島にこんな会があることを知って、私は非常にうれしかった。精進また精進、波のように風のように、いついつまでも歌い続けていただきたい。
(一九六四・四・二〇)
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