1963(昭和38)年3月15日(金) 唐桑につながるもの1
私の家が火事で焼け失せたのは、私が生まれた前後の事情から推して、明治三十六年の十二月頃でもあったらしい。原因は子どもの焚火だと老人たちはいい、近所をはばかる口ぶりではあったが、はっきりしたことはわからずじまいだったのだろう。
何しろそのころは消防の組織もないし、部落でいちばんの高台ではあり、水は海岸の岩の井戸からかなりの距離の坂道を桶で汲みあげていたのだから、防火用水どころか顔洗いや洗濯にも心せねばならない状態では、あれよあれよと、焼き落ちてるのを見ているほかはなかったろう。蓄えに蓄えた穀物まで焼いてしまったと残念そうに、祖母はしばしば話していた。それは蓄積一点張りで、それこそ食いたいものも食わせなかった先代たちへの不満の表白でもあった。
現在の物置は、この火災をまぬかれたものか、それとも傷手にこりて新たに建てたものか、私にははっきりしていない。
ともかく、家のまわりの何本かのけやきの膚が片側を焼かれて、いたましい火災の跡を物語っていた。
じつは、この火事の前に、私はこの世に生まれているはずであった。というのは、あらかたつぎのようないきさつがあったからだ。
臨月の母は、冬の労作にはほとんど出ないで、機織りなどをしながら分娩の日を待っていた。すると、あきらかに出産の徴候があったので、何かと支度を整えた。ところが、どうしたことか、そのまま何事もなく収まってしまった。そうして二十日ばかりして再び産気づいたときは、家が焼失した後で、しかも予定していた母の家ー私には祖母の実家まで一〇分そこそこの道のりを歩いて行くいとまもあらばこそ、やむなく、すぐ裏の家で生ましてもらったという。「おまえはこの家で生まれたんだぞ。忘れんなよ。」と私はよく母にいわれ、私も決して忘れまいと心に刻みつけた。が、誕生に母をとまどいさせた次第を話されるのは、それとこれと所詮は不可分のことながら私がひどいろくでなしのようで何ともつらかった。なるべく耳に入れまいと思い、忘れようと努力した。
そんなわけもあってか、この間の消息には他少のくい違いがあるかも知れない。
火災の後のしばらくはどうしたものか、そこのところは聞いていないのでわからないが、私が育った家は、唐桑で売りに出たのを買いとって解体し、ほとんどそのまま移築した平屋であった。間口は十二間くらい、奥行きが五間半か六間ばかりのかなり大きなかやぶきで、屋根に破風があった。一部は中二階なっていたが、間仕切りも天井もなく、昼でもうす暗いので、漁具とか農具とかの置き場になっていた。
その後何年かして帰ってみると、屋根は勾配をゆるやかにしてスレートにふき変えられ、破風もとり払われて、何の変哲もない家になっていた。かやぶきの屋根をながめて育った私にはそれが突然であっただけに、低くて平べったくて、しかも安っぽくなった感じで、しばらくどうにもなじめなかった。が、資材の都合とか時勢の移り変わりということもあるのだから、いたずらに視覚をいたわってばかりもいられまい。
それからも縁側のあたりが模様替えされたり、台所の改造から土間は狭くなったりしたが、要は住みよいようにすればよいのだし、かつては農作物などを処理するための作業場でもあった土間を、今日はそんなに広くとっておくこともないだろう。
変わらないのは母屋で、建築してから七十年くらいにはなるかと思うが、ここ当分は改築の要もあるまい。(つづく)
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