1963(昭和38)年4月5日(水) 唐桑につながるもの3
~水産学校時代~
大正七年の四月、みんなより十日くらいおくれて、私は水産学校に入学した。授業料は三十銭で、浦の浜と気仙沼の間を往復する船賃も、月額が同じ三十銭であった。
もともと私は水産学校にはいるつもりはなかった。高等科を卒業すると、新しくこしらえてもらった角袖の袴に羽織を着てバスケットをさげて、鉄道はなかったから、気仙沼から汽船で塩釜に渡った。かなりの船酔いを感じながら生まれて初めての汽車に乗ったときは、もうすっかり夜であった。
あくる朝は上野に着き、さいわい、その日のうちに住みこみで職もきまった。が、社長の住居の掃除にいやけがさしたのにホームシックが手伝い、“苦学力行”もどこへやら、一週間ばかりで飛びだしてしまった。
おめおめと家に帰ったものの何をするあてもなかった。兄に勧められるままに、やむなく水産学校にはいることにした。ありがたいというか、学校からわざわざ先生が入学勧誘に来られた時代だったから、試験もなく入学が許可された。
驚いたのは、みんなはもうアルファベットをそらんじ、ローマ字を書いていることであった。私はそれを英語だと思い、こいつは大変だと内心でひるんだ。
同級生は四十数人であったろう。唐桑出身は鈴木貞雄、鈴木祐之の両君で、どっちもまじめで温和な人柄であった。祐之君は目的を変えて他の学校に転じ、貞雄君は卒業してから小学校の教師になったと聴いたが、両者とも音信はすっかり絶えて、その後のことについてはつまびらかにしない。
日がたつにつれて、二年生に伊藤武、亀谷一義の両君がいることを知った。伊藤君は短気ではあったがきびきびした理論で光彩を放ち、それこそ素志を貫いて後年をなし、戦後には共同印刷会社の重役として運営をつかさどり、転じては中小企業研究所の常任理事に任じ、自らも日本スーパーマーケット株式会社を経営していることは、人のよく知るところであろう。亀谷君はせいが高く、茫洋として何か捉えがたいものを持っていた。今はすぐれた鋼鉄の船を建造して遠洋漁業を営んでいるとか。二人とも進歩的な近代企業の道を歩んでいることも珍しい。
三年生にも誰かいたかもしれないが、上級生は近づきがたく、私にはとうとうわからずじまいであった。途上で礼をしなかったという理由で制裁を加えられたりするものもあり、これはどうも二年生がやったらしいが、いずれにせよ、同郷者以外の上級生との早急な接触は思いもよらなかった。
三年生が卒業して私たちが二年生になると、熊谷与平君たちがはいってきた。唐桑中学校の熊谷氏とは、過ぐる日、再会の機会があったが、にこやかな顔に漆黒のひげがみごとであった。
鈴木貞太郎君たちが入学したのは、その翌年であったろう。あのふくよかな紅顔の少年も、はや還暦に近く、今は何をやっているのだろう。
かえりみて、私は決して善良な生徒ではなかった。それどころか、学校はよく休む鳥打帽子をかぶって町を歩いていたと呼び出しを受け、年とった先生にこごとをもらったこともあった。遅刻や早退の度数も少くはなかったろう。
何よりの楽しみは詩や文章を書くことで、投稿したものが雑誌に載るのが喜びであった。傳文館の「文章世界」の選者は北原白秋で、私も何篇かひろわれた。こうしたことが私を勇気づけ、何よりの救いでもあった。
二年生のとき、伊藤武君や大島出身の小山良吉君たちとストライキを企て、学校の裏山にみんなを集めてアジったりしたが、結局ものにならなかった。
三年生の十一月のある日、退学願を学校へ郵送して、私は東京へとび出した。小学校卒業以来、もうこれで三度目か四度目であったろう。ところが“背水の陣”のつもりがもろくも崩れて、またぞろホームシックにやられ、結果はもとの木阿弥に終わった。学校では復学を許すといったと祖父はいい、級友からの勧めもあったが、もはや戻れる義理ではなかった。
自己主張型か、あこがれ型か、いずれにせよ私の”神経病時代”の無計算からではあったが、後年、小学校教員になってみて、あのとき卒業しておけばよかったと悔いることがしばしばであった。
それから私は、農耕を手伝ったり岸漁をやったり、近所の人たちに互して季節の仕事にいそしんだ。麦打ちのゆいに出歩いて、若い娘たちと歌を競いながら、炎天へから竿をふるったのもこのころであったろう。心配する母を少しでも安心させたい気持ちもあった。 (つづく)
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