1963(昭和38)年6月5日(水) 唐桑につながるもの7
~想いは尽きない地縁~
昨年の春、大島小学校を勇退した村上初助氏が発令を目前にして病いにたおれ、仙台の病院に入院したという報知に驚かされた。何たることかと、一瞬、目のくらむような衝撃に思わず息をのんだ。三十九年を一貫しての教員生活も、二十四年を唐桑小学校に勤務したとか誠実一途な人間像をまのあたりに見る思いがし、イメージには、雨の日も風の日も、もくもくとひとすじの道を往く大徳の姿が金色光を放つにも似ていた。
本復の日の速やかな到来を祈念し、第二の人生へのにこやかな出発と前進に期待してやまない。
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北半球をおそったというきびしい寒波も晴れておだやかな去る二月一日に、水梨小学校の校歌発表会が行われた。私の作詞に、フレーベル少年合唱団の指揮者で神奈川県のくげ沼に在住の新人音楽家磯部俶氏が作曲したものであった。校長の村上彦五郎氏は大島の出身で、資金の造成には学区の人たちの労力奉仕で公有林の下刈りを行ったとか、人ごとならず、ありがたくもうれしい限りであった。
この地区の羽田のお山は御崎さまとともに、西と東に位して小さい私のあこがれであったが東の巨大な二本杉に対して、西には太郎坊・次郎坊といった兄弟杉があることも、海と山との協和音が楽しかった。
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「唐桑領歌」で私は「われ未だ唐桑の名の由来を知らず 知らずともよし」と書いた。が、これはこの詩の次元での逆説的な表現で、詩が真実追求の先頭者であることはいうまでもあるまい。
“知らずともよし”どころか私なども「往古“諏訪の荘”と呼んだが文治五年、平泉藤原氏滅亡の後、葛西氏の治下となり、家臣安倍氏が居住の時村内神止港に桑樹の埋木あるを見“これ唐木なり”とし、爾後“唐桑”と呼ぶようになった」とか、宮城県史に「昔、唐の国から桑の木を積んだ船がこの浜の西海岸で沈んだので“桑とままり”とう称したと国碑にあり、今は神止といっているが、これが唐桑の起りだと伝えられている」という記述にも関心をもたずにはいられない。
これを小山正平氏が「黒潮の果」に記された次の事柄と思い合わせるとき、その間に相通ずるものがあるようにも思われるがどうであろうか。
「三陸沿岸における交易の古記録は弘仁元年(八一一)渡島のてき二百余人気仙郡に来着したことをのせているが、南方から黒潮に乗って来た外国船がこの三陸沿岸にもどしどし立寄ったことであろう。」
「大島の前見島には外人女の墓と伝えられるものがあり、唐島とともに密貿易の場であったともいわれ、またこれらの島に上陸すると毒蛇にさされるとか病気になるとかいって上陸を拒んだという伝説の残っていることも、密貿易の発覚を防止した一策であると思われる。こうした大島、唐桑沿岸の旧家には当時の交易品と伝えられる古い陶磁器を沢山所有している家もある。」
なお製塩については、次のような文字が注目される。
「古代における宮城県の各沿岸、殊に牡鹿半島以北は海藻の豊富な所であり、近くに砂浜や熱資源の薪も多いので、製塩も全国に冠絶していたであろうし後世藩政時代の状況からみてもこの三陸地方の各所で製造したと想像される。昔から室根神社の祭典の時、唐桑の舞根部落から塩水を持参して、行列の先達武者七人を始め関係者の食べるかゆを炊くことになっているといわれるが、これは舞根部落の塩と室根人との関係を語るものであろうと思う。」
塩といえば鹿折の古々塩とか階上の浜でもたいたというが、この本には、なお「養老二年(七一八)大野東人熊野神を奉じて鮪立に上陸するー室根山」とか、正慶元年(一三三二)御崎明神の本地仏を熊野より勸請」とか、「鮪立古館の鈴木国雄氏宅から、同家勘右衛門氏が延宝二年(一六七四)紀州熊野から漁師を呼んで鰹の一本釣をはじめ」藩から「船までもらい漁法を広めるように激励されたという古文書」が発見されたことも書かれている。
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さて、私は、私の唐桑にかかわることのいくつかについて書きつらねたが、血縁の地である唐桑とのつながりはこれらのことに限るものではなく、私の感知しなかったり忘れたりしたものも少なくはあるまい。これからも尽きることがないであろう。
少年の私は、朝起きると家の東側に出て、早馬山や唐桑を眺め、唐桑の西の岸の全容からさらに太平洋を望み見た。目を北に転ずると、真近に亀山がそびえ、その北に室根山がかすみ、西には北上山系がつらなっていた。岩井崎や金華山も南西に見えるはずであったが、これは近所の家の樹木に視野をさえぎられていた。
とにかく、所在ないとき、さびしいとき、私は戸口を出ては見なれた景色に目をやるのがいつもであった。朝はそこから太陽がのぼり、夕方は赤やみどりのいさり火が波のむこうにまたたいた。
石浜の梶原堂とか。大理石に貝や魚の化石が見られるという岩井沢の大理石海岸とか、それを知ったのは唐桑の観光協会が発行したリーフレットからであったろうか。
波は打つ
黒潮の北のかぎり、リアスの岸
岩群やこぞり立ち
磯松や照りを深み
つばきさわにつぼめり
ーー初漁は何やらむ
これは三陸新報の一昨年の元旦号に書いた連作体の一つだがむさし野の片隅の家の窓べりで過ぎ去った遠い日へ目を閉じれば、海岸の岩の姿や松の木のたたずまいや、少年のころの何か晴れやらぬ景色が瞼の裏にほうふつと浮かんで来る。松風の音や磯を洗う悠久な波のひびきが耳の底に聞こえて来る。
(終り)
ー一九六三・三・一二ー
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