1963(昭和38)年7月15日(水) 唐桑につながるもの【補遣】
~生家の火事と唐桑のイカ釣り船~
もし焼けなかったら、たとえあばらやであっても、あっさりと”生家“と呼べたであろう。その家が烏有に帰した前後の事情について、郷里の叔父にたずねたところ、幼いながら身をもって体験したことだけに、よく憶えていて、かなり詳しく知らせてくれた。それによると、火災が起こったのは明治三十六年の陰暦十月二十一日の午後一時頃だったという。
その時、数え年十歳の兄と八歳の叔父(兄は母の長男で叔父は母の末の弟なので、年上の甥と年下の叔父ということになる)は、こえ(叔父は“小家”と漢字をあてているが、これでは“小さい家”ということになるから、辞典の「物を納めておく建物」という注釈に従って、やっぱり“納屋”というべきであろう。内部には板敷などもあって、近所に間借生活していた人たちも幾組かあったから、家に準ずる物と考えてよいかもしれないが)の縁側で、竹馬を作っていた。
すると、祖父や曾祖父が手桶などをさげて、家の後の方へあわただしく駆けていくのを見た。何事が起こったのだろうと、叔父たちも行ってみて、びっくりした。「どこから火が出たのか分からなかったが、かなりの大木であった囲いの杉の枝に火がついて、ぼたぼたと屋根に落ちて、一面に火がはい回っていた。私はそれを見るや、泣き泣き、どこへともなく逃げて行った。浜にいて、誰かに連れられて来てみたら、家も厩も焼けてしまって、ただ物置だけがぽつんと残っていた。私はまた泣いた。」と、七十歳に近い叔父のペンはその日の自分の姿を浮彫にしている。
そして、またしても「誰かに連れて行かれたのは前の家のこえ(いま気仙沼小学校に勤めている村上久教諭の生家のそれであろう。総二階でむしろはなれというのが適切かもしれない)で、その晩からお世話になった……。」もちろん焼け残った物置にも誰かが寝たであろうが、「人間は他人さまのお世話になっても、馬はそうはできない。掘立小屋を建てて入れた」という。そして「それでも馬のほうが人間よりも先にわが家にはいったわけだ」という述懐には、不慮の災害で家を失ったものの悲愁と困惑が言外ににじみ出ていた。その頃、イカが大漁であった。ところが、唐桑からのいかつり舟のほとんど全部が、火事を見て、長崎の浜に漕ぎ寄せそこらの家の手桶や洗い桶などの手当たりしだいに海の水を汲んで三ー四百メートルもあるだろう坂路もいとわず、いかの好漁も顧みず、一心に消火にあたってくださったことを、あとで聞いて知ったという。
私はさきに「あれよあれよと焼けおちるのを見ているよりほかなかったろう。」と書いたが、あにはからんや、、こうして近隣や縁者はもとより、思いもかけない人たちの尊い献身と奉仕まで仰いだのであった。
また、物置が残ったのは、そばにあった小さい池にむしろをひたしてはかけ、ひたしてはかけして火を防いだからだという。池といっても、それは周囲が五メートルばかりの卵に似た形の水たまりにすぎなかったが、粘土質のせいか、よほどの日でり続きでないかぎり、たいてい水があって、水すましや蛙が泳ぎ、みんなが手足の泥を流したり、鍬や鎌を洗ったりした。北の方のへりにははなしょうぶが咲き、からを脱いでとんぼになりかけているやごを見つけたこともあった。
「それから一日一日と心もおちついてきて、家を建てることの相談になったのでしょう。同年十二月に売買の契約がまとまった」というが、祖父の「実家や兄弟たちのお世話はたいへんなものだったろうと思われます。価格は二百十五円で買受けたと聞いていました。唐桑の鮪立ちで、K家の隠居という家だといっていました。S・Sという人だそうです。……間口は九間奥行きは五間で、材料も大きいものばかりで、これを解体して長崎の浜まで運ぶのに十一日とか十二日とかかかった」という。機械力といったものがなく一切を人力に頼ったであろうから、これを運びあげるのが、またたいへんなことであったろう。後年、屋根をかやぶきからスレートに改めたのは、どっちでふき替えても千円はかかるので半永久的ということから、兄と叔父が相談の上でやったとのことであった。
また、おしんおばさんは、家は小鯖の白磯で、祖父の姉の娘だというから、母とは血のつながったいとこ同志なのだが、その頃の人が世を去った現在は、どちらからも往き来が絶えているという。
◆ ◆
三月二十九日に、小梨まりや先生から待望のはがきをいただいた。もう六十六歳とか。「身体だけは至って頑健ですが、無為無作、頭は時節がら春がすみ呵々。」は一流の含蓄に往年を思わせたが、中井小学校の小梨とよ江先生は気仙沼水産高等学校に勤務せられる令息の婦人で中学校二年と五歳と二人の令孫はどちらも男とあっては、春がすみどころか、春の光でいっぱいというところであろう。
また、あの時の婦人については「仰せの通り梶ヶ浜の畠山志んさんです。鮪立の鈴木久七氏に嫁し、賢男美女数名をもち、繁忙と幸福の毎日です。」とあった。ご主人は魚類の製造加工の事業家とのこと、すぐれた内助によって、ますます大を為さしめていただきたい。妹のときよさんも秀でた頭脳でその自由詩は「赤い鳩」で二度ばかり北原白秋先生の推奨を受け、佳作にもいくつか選ばれた。小学二年生のころであったろう。今はどうしているか。さだめし健康で幸福な境涯であろう。
新聞でみると、鈴木祐之氏はこの春の選挙で町会議員に当選し、鈴木定太郎氏も産業界に活躍しているようだが、どちらも健康な姿勢が思われて、なつかしくまたうれしかった。
なおさきに書きもらしたがその頃中井分教場におられた伊東貞雄先生も町会議員になられたとのことだが、お元気で地元のためにはたらいてくださるようお祈りしてやまない。
陸中海岸国立公園への編入もさることながら、唐桑は前進と飛躍への要素なり条件なりを多分にもっているのだから……。
ーー一九六三・七・八ーー
コメント