1961(昭和36)年11月8日(水) 母校米寿
八十八周年を手帖の年齢早見表で見ると、大島小学校が誕生したのは、日本ではじめて学制が発布された明治五年か六年で、ついでに数えてみると、私たち男女四十人ばかりが入学したのは明治四十三年の四月というわけだから、なんと五十年——半世紀前ということになる。
「はるけくも来つるものかな。」今さらのような感慨も、必ずしも明治調とばかりはいえまい。
一年生のときの受持——今でいうと担任のY先生は、坊主頭で、眼鏡をかけ、黒か紺かの詰襟の服を着ていた。はたちぐらいでもあったのだろう。
教室へはいるときや校庭へ出るときは、廊下の戸口に立って、バヨーリン――正しい呼び名でのバイオリンを弾いてくれた。曲は“もしもし亀よ”や“浦島太郎”などであったらしい。
が、集団生活へのせっかくの序曲もものかは、私たちは早く校庭へとび出したかった。背中をおしあいながら昇降口に出て、自分のぞうりを取ろうと、下駄箱の前でひしめきあっていた。
校庭の南東に大きな松の木がそびえ立ち、水平線が青くかすんでいた。
二年生のときは年とったO先生であったが、そのうちSという女の先生に変わった、O先生は退職されたのであろう。どちらも和服であった。
ある日先生が休んだので、Oという校長先生に唱歌を教わった。「はいしい、はいしい、歩めよ小馬」というはじめての歌だったが、楽器は一切用いず、指をタクトにしての、もっぱら声楽教授で、二番目の「ぱかっ、ぱかっ、ぱかっ。」をみんながおもしろがった。校庭に出てからも、足をあげて歩きまわった。
三年生のときのY先生は、ひげをたくわえていて、目つきが鋭かった。たまに洋服を着てくることもあったが、たいていは和服であった。相当の年らしかったが、同級のS君の家に下宿しているときかされた。家族は郷里にでも置かれたのであろう。こわいけれど言葉のはっきりした先生で、週に一回“発音”という時間があった。だんだん進んで“しょうゆ売りの庄やは、しょうしがって正面を向きません”とか“松の木の下でキジがきけょんけきょんと鳴いています”とか舌がもつれるようなむずかしい一音一音を一人ひとりがいわされたり、全体でやらされたりした。反復の効果というか、「シ」と「ス」や「チ」と「ツ」の区別がはっきりするまでに発音が矯正された。はじめはいやだったが、あとでは楽しい時間になった。
ある日、まだ二時間か三時間しかやっていないのに、数人が帰り支度をしていた。きけば、先生が、「帰ってよい。」といったという。みんな大喜びで、ふろしきに本や帳面を包んで帰りかけた。するとほかの先生に「帰ってはいけない。」と呼びとめられてしまった。あとで先生は酒に酔っていたのだと誰かにきかされた。私たちが授業をしている間先生は宿直室あたりで、さだめしよい心持でおやすみなってにおられたでもあろう。まことにうららかな話ではある。
四年生のときの受持はU先生で、髪をきれいに分けていた。そんな年でもなかったろうが、しらががあって、どういうものか、私はよく抜かされた。みんなが勉強している前でのことなのでなんとも恥ずかしくてやりきれなかった。
この年学校でははじめてオルガンを買い、それが私たちの教室におかれた。U先生はうれしそうに鳴らして聞かせた。
五年生のときのM先生は、軍隊ばりの号令が校庭いっぱいに響きわたった。せいが高くて、ひげを生やしていた。
理科の時間で、題材は「馬」であった。先生は「馬のつめを何というか知っているか。」と問いを出された。誰も知らなかった。すると、N君が手をあげた。名を指されると、どもり気味のあるN君は、席から立ってゆっくりした調子で答えた。「ゴダイ……。」
みんなが笑い出した。先生も苦笑した。N君にしてみれば、この笑いは意外だったろうが、顔を赤らめてにこにこしながら席に着いた。手工の時間に紐や縄の結び方を教わったのは、この学年のときではなかったろうか。垣根結びなどは今でも役に立っている。
六年生のときのS先生は、師範学校を出たばかりだとのことであった。そういえば、若わかしくてニュアンスの違ったもの感じられたが、それは妙な巻き舌のいい方とともに、この先生の特徴であったのだろう。師範学校出といえば、前の年に来られたし、先生と主席訓導のR・N先生もそうだと聞いたが、師範学校出であろうとなかろうと、私たちにとって、先生はみんな同じであった。 そういえば、大島に来るのは、文字どおり島流しにされるような気持になった先生もないことではなかったろう。
この頃から和服の先生はほとんどなくなったのではなかろうか。裁縫のK先生はいつも清楚な和服で、私たちは「裁縫先生」と呼んでいた。同級のDさんの母堂であった。
尋常小学校卒業だけの者も半分くらいはあったのだろう。高等科は一年生と二年生がいっしょであった。R・N先生とT・N先生とO先生と二年間に3人の先生に教わった。文武二つの道を尚ぶ意味だとかで「二尚会」という自治会があって、二年生のR・O君が議長であった。あくる年は、私がそれに代わらせられたが、みんなが、急にあらたまっての、会議形式なので、それをどう進めてよいか分からず、発言の少ないのには困った。仕事の一つとして、月に1銭ずつの会費で、「少年倶楽部」とか「少女の友」などを回覧したが、これはありがたかった。
卒業期になると、気仙沼の水産学校から先生が入学勧誘に来て、水産の話をしてくれた。校舎の前に歌壇があったが、S校長先生が栽培したトマトをいうものをはじめて見たのは四年生のときか五年生の頃ではなかったろうか。長崎のY君の家かでサツマイモの栽培をはじめたのもその頃で、大島にはじめて電灯がついたのも、その前後ではなかったかと思う。
沖からろをおしてくるカツオ船の歌いこみも、発動機の爆発音に変わっていった。そして秋にはサンマが食膳にのぼるようになった。
何しろ弁当というものを誰も持っていかなかったので、学年が進んで、午後も二時三時まで授業を受けて家に帰ると、麦飯を五はいも六ぱいも胃袋につめこんで、やっと人心地になることもしばしばであった。が、そういうものだと思っていたから、別に不服はないし、家に帰れば何か食えるという楽しみを、それはそれなりに与えてくれたともいえよう。
とにかく、名は大島でもリアス式海岸の一隅にちりばめられた小さい島のことで、たまによその学校から転入してきた生徒があると、ことばの違いやみなりのよさを珍しがったりした。それに私たちの行動半径はいたって短かく、亀山も唐桑も目の前にありながら、金華山や太平洋の雲のように、ただの風景でしかなかった。
そういえば、高等科の二年生だったかのある日、古びた黒の洋服にわらじをはいた人がすたすたと門からはいってきた。すると、O先生が「朝日新聞の柳田国男だよ。」と教えてくれた。その頃、女の人たちは、新月の方まで小麦をしょって、水車小屋で粉をひいてもらっては、一日がかりで帰ってきた。それを見て「原始的だね。」と柳田先生がいわれたと聞かしてくれたのもO先生ではなかったろうか。とにかく、柳田先生の姿を見て、私ははじめて“旅人”というものを見たと思った。
PTA新聞“くぐなり”が開校八十八周年の記念号を作るから何か書けということなので、、小学校の頃へレンズを向けてみたもの、遠い幼い日のことなので、かなりピントがはずれているかも知れないし、私も数えて十九の年の秋から二十年ばかり小学校の教員をやったので、それとこれとが二重映しになったところがないともいえない。あるいは映像のゆがんだのもあるだろう。
学年を追って羅列したせいで、恩師たちを素描するする形になったが、かつてのたわいない蛮童の日の私を、恩師たちも笑ってお許しくださるだろう。成長の途上にあった私たちにとって、明暗や哀歓のかずかずも、悠久な波のひびきとの協和音にも似た八年間であった。
母校米寿!
が、風雲八十八年の歩みも、その果てない未来への思いをひそめるとき、なお前奏曲の一小節か二小節かに過ぎないともいえよう。
大島小学校に栄光あれ!
〈一九六一・一〇・一八〉
コメント