1962(昭和37)年8月7日(火) 「くぐなり」への手紙1
〔その一〕
「くぐなり」の未着分をお願いしましたら、さっそく送って頂き、うれしく拝見しているところへ、またも同じバックナンバーが届けられました。これは貴重な資料となるものなので、重複する分は返送しようかと思いましたが、考え直して近くの東小学校へ寄贈することにしました。この小学校には、三月に戸倉中学校に転任せられたという西条信和先生と中学校で同級の今野正実という先生がいます。生一本な情熱家で、児童愛のかたまりのような青年教師です。私の次男で末っ子の兆彦たちが五年生から六年生にかけての担任でした。
「くぐなり」は月ごとに待たれるものの一つで、このタブロイド版は好ましい形体です。月間は大変なことでしょうが、ぜひ長く続けてほしいものです。四五号から遠洋に働く大島出身の人たちに送られるとのこと、どんなにか喜ばれることでしょう。スペースを見つけて、ときには児童の作品の一、二遍を載せることも考えられます。“火鉢”は楽しい読み物です。デフォルメがよく利いているのに感心し、思わず苦笑させられます。先生の数にも限りがあることですが、こんなのはかこみにされたらどんなものでしょうか。
“四三号”「二〇年後の私たちの胸ふくらませて書いた夢」はよい企画で、むしろ、わたしの方が勇気づけられながら一気に通読しました。交響曲のように鳴りひびく卒業生たちのこもごもの声に、両親や家族たちも、さだめし胸をはずませたことでしょう。この美しい夢をぜひ実現させてやりたいものです。同号の「新校歌についてのアンケート」は、皆さんの意見をきくことができて、賛否ともうれしく拝見しました。大島小学校に校歌があることは、いつ誰にともなく聞いていましたが、かつて一度も歌ったことも耳にした記憶もないので、それがどんな歌なのか、歌詞に涙の松があること以外は何も知りませんでした。それを創立八十八年記念の三三号で、芦田敬之助作詞、田村虎蔵作曲の佳品が、しかも明治三十八年四月に制定されていたことを知った驚きは、同時に感嘆につながるものがありました。
が、この歌詞は文学的にはともかく、校歌としてはどう考えても適切なものとは思われませんでした。で、心易い村上前教頭へ、感じたままを書いてやったのでした。といっても、「いかにも古い」とか「時代錯誤の感」とかいったかいなかでの評言を用いたざっぱくな私信で「安波の丘の灯竿」は事実と違うではないかと指摘したつもりが、崎浜に安波という社があるとむこうから教えられる始末でした。それが、40号に公表されて波紋を投げる形になりましたが、わたしも卒業生のひとり、母校を愛する気持のあらわれと受けとって頂きたいものです。あの手紙でも触れたスクールソングについて、芥川也寸志先生は、「一つの学校に十曲―いや二十曲くらいあった方がよい。著名な歌に限らず、児童の作詞や作曲によるものもあってよいと思う。」といわれました。昭和三十二年四月十九日の夜、大島中学校校歌発表会に出席のための汽車の中でした。大島小学校や中学校の場合は“大漁うたいこみ”といった民謡などを正調で選ぶことも考えられます。
35号の記事で、小山よしみさんの「子供のしつけ」には、若い母親の目でとらえた幼児の姿が具体的に描かれ、小山たか子さんの「笑顔」や、七十五才の菊地せつおばあさんが雑巾百枚を寄付されたという文字には、頭の下がるものがありました。盛夏を迎えて、大島は海水浴で賑わっていることでしょう。皆さんが心を一つにして、遠来の人たちに親切をつくしてくださるように願っています。
ご多幸を祈りあげます。 ―一九六二・七・二十―
コメント