1963(昭和38)年7月1日(月) 「くぐなり」への手紙5
〔その五〕
三月の末に、遠藤金坪さんの「早春」と題する絵を学校から拝受しました。紺碧の海に唐島がもりあがり、前景には麦畑がひらけ、左には松をいただいた石灰岩?の崖がそばだち、楽しくもなつかしい風景でした。
さきに、大島出身の遠藤氏の絵を送ると知らされたとき、これはどういう人だろうと首をかしげました。それで、村上万次郎先生にたずねて、廻館に住み私より七つばかり若い人だとわかりました。そこへ、二月九日付の三陸新報が、この人は児玉希望氏の門下で,かつては文展の特選候補に二度もあげられたことを伝え、右手の不自由にもめげず中央画壇へのカムバックを期して精進している次第を、写真入りで報道してくれました。
で、せっかくの製作に差し障りがあってはと辞退しましたが、画伯からも手紙があって、やがてご芳志の一幅が到来したのでした。遠藤氏のご健康と画業の大成を祈り、長く保存して洗心のかてとしましょう。ありがとうございました。ところで、私はどうでしょう。
海はいのちのみなもと
波はいのちのかがやき
大島よ
永遠にみどりの真珠であれ
この文句を扁額用と校長先生がご所望とのことに、書く書くといいながら、今もって出来ていません。近いうちに、ぜひ約束を果たしたいと思っています。
村上初助先生から、三月末に退院したとのお便りがありました。去年の二月の末勇退の発令を前にして仙台厚生病院に入院されてから一年余り、めでたく本復せられましたこと、まことに喜びに堪えません。早期発見、早期治療と、「肩の荷を下ろしたような気持で」の自重自愛の賜でもありましょう。
悠久の波の音を聴きながら、予後を十分に急がず焦らず、新しい方途をと念じ、第二の人生への出発に限りない栄光と祝福を献じたいと思います。
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このあいだ、シベリアのバイカル湖のほとりに、笛のようなひびきをたてる砂のあることを知りました。
よく晴れた日に湖のそばを通ると、美しいメロディーが聞こえるという旅人たちの話から、ソビエト連邦の考古学探検隊が調査をした結果、はじめてわかったとのこと、地球の砂の兄弟が、ここではフリュートを奏でていたわけです。拙作「クグナリ浜」へ、この一行を加えようかと考えています。
なお、第二信で海岸線の長さをお聞きしましたが、およそでよいから、どなたか葉書ででも教えていただけませんか。
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第三信で「フナムシの研究」を書きましたが、これは一昨年の十一月八日付の三陸新報で、五年生の小野寺清人君の「フナクイ虫の研究」でした。訂正します。
なお、第三九号の「母校米寿」に、大島にはじめて電灯がついたのは四年生か五年生との頃のように書いたのはとんでもない勘違いで、第三八号の「八十八年の足跡」に記録された大正十年十一月四日だと、私が高等科を卒業して三年もたってからのことでした。あの部分を削除します。
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端午の節句までまだ二週間ばかりあるというのにもう大きな鯉のぼりがみどりの風に泳いでいます。黄色い帽子の一年生たちが、路ばたに転がっている太い土管の上を歩いたりして、家へ帰っていきます。
―一九六三・四・十八―
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