1963(昭和38)年4月15日(月) 唐桑につながるもの4
~消えやらぬ文学熱~
昭和十一年も六月になった。いつまでもこうしていてはいられなかった。何とかせねばならなかった。かねて語り合っていた准教員の試験を受けに、私より二年若い近所の村上初助君と志津川へ出かけた。水田からとびあがり、しろかきの泥にまみれた顔や手足をそそくさと洗いおとして、松岩は尾崎からの徒歩であった。
どうにか合格した。大島小学校長をしておられた白幡豊治郎先生の紹介で、鹿折小学校の代用教員を命ぜられた。九月六日付で月給は三十円であった。やられたのは浦島分教場で、複式教授の三、四年は主任の山内盛先生で一、二年生は私の“王国”であった。
学区は大浦、少々汐梶が浦、鶴が浦のいわゆる四ヶ浜であったが、唐桑分の日向貝からも二名ばかりが山坂を超えて通学してきた。余りにも人数が少いので、唐桑村は鹿折村に教育を委託したのであろう。
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浦島にいること二年余り、昭和十四年の三月末日付で、私は唐桑小学校へやられた。まったくの不意打ちで、事前に何の話もないし、だいいち、転任など考えてみたこともなかった。信じられないようなことが、しかし、げん然とそこにあった。
よくもあしくも初めて教師というものになったところなので名残は尽きなかった。日ごろの行状も省みられた。別れを惜しんで唐桑小学校へ赴任した。受持は二年生の女児であった。
ところが、まもなく校長の平井金吾先生が鹿折から転じてきた。私は困ったと思った。赴任のときこそ前後するが、これではまるで私が引っぱられてきたように見えるではないか。とんでもないことだ。
が、何がどうあろうと、私の知ったことではなかった。四月が過ぎ、五月が過ぎた。同僚に誘われて、御崎の神社や巨釜半造の風光に接したりした。名前は忘れたが、郵便局に勤めていた若い人が、下宿屋であったか宿直室であったか遊びにきて先頃まで列車の車掌であったといい、上野駅から青森までの東北本線の駅の名をつぎつぎとそらんじるのに驚かされたりもした。
六月になった。が、私の気持はさっぱりしなかった。そんな気持で毎日を送るのがバカらしくなった。いくらもない身の廻りの物をとりまとめて、ある晩宿浦をとび出し、はじめての路を気仙沼へ急いだ。どこをどう歩いたものか、夜だからわからなかったにしても、気仙沼に着いたのは何時頃であったか、大島へ渡るまでどうしていたかもその記憶がない。
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三月ばかり家でぶらぶらしたといっても、経験に何でもやってみようと、百姓仕事のほかにわかめ刈りやほそめ引きなど、海へも進んで出ていった。学ぶべきものはどこにでもあって、揺れ返す波の色にもいのちにひびく何かがあった。そして少年の心にともった文字の火は、どんな時にもどんな場合にも絶えることがなかった。私は何やらずっと書き続けた。
鹿折の主席訓導であった小川源四郎先生が、その頃歌津村の名足小学校の校長をしておられた。使っていただけないかと手紙を出すと、よし来いとの返事で、十月十二日付で勤めることにきまった。
大正十五年は十二月二十五日で昭和元年になった。
が、鹿折時代、唐桑時代、歌津時代を通じて、水産学校時代からの混迷の域を、私はなお脱しきれなかった。あくる年の十二月、私は名足小学校を退職して、東京へ出た。変転を重ねた郷里での生活に、これで一応の終止符は打たれた。
ー一九六三・三・五ー
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