からくわ民友新聞 唐桑につながるもの2

1963(昭和38)年3月20日(水) 唐桑につながるもの2

 本紙創刊号の「唐桑領歌」で、私は”唐桑は祖父が出生の地”と書いた。唐桑と私を結びつけるもろもろのうちで最も重要なのは、この血のつながりであろう。
 祖父は千葉の家の生まれで、幼いころ養子にきたのだという。鴨木とか神止とかよくいっていたから、そのいずれかが生地であったろう。
 婚礼とか法事とか、お盆や正月にも、一族の男や女の人たちが船を漕いでやって来た。春も彼岸になってから、“お正月には来られなく……”と、笑いながら新年のあいさつを交わしていることもあった。
 話しぶりはゆったりとおだやかで、アクセントも違い、何かみやびたものがあった。調子もなめらかで、少なくともわれわれのような性急さや荒っぽさがなかった。
 女の中のひとりは、垢ぬけのした美人であった。後年樋口一葉の写真を見ると、よくこの人を思いだした。顔かたちがどうこうのというよりも、ほっそりと憂いげな面だちや知的な目のあたりなど、印象に相通ずるものがあった。私の母よりはいくつか若かったろう。私たちは“おもんおばさん”と呼び、おもんおばさんは母を“いとこ”と呼んだ。母は祖父の長女だから、世の常の呼び名だけでなく互いに血のつながりもあったのだろう。
 でも、母の背に負われた日のことは知らず、もの心ついて、この人たちの家を訪ねた記憶は私にない。そういえば、むこうにも子どもがあったろうが、誰もつれて来なかった。足手まといではあり、お互いにやっかいをかけまいとのおもんばかりであったろうか。あるいは子どもについての、それが昔からの不文律であったかとも考えられる。
 いずれにせよ、遠くから客が来るというものは、この人たちには限らないが、私にはひどくうれしかった。子どももいっしょだったら、喜びは更に大きかったに違いない。
 ともあれ、現在の家を斡旋したのも、たぶん、この人たちであったろう。
  ×  ×  ×
 私たちの心をゆさぶるものは何といってもお崎さまのお祭りであった。鰹船は旗やのぼりを立て櫓拍子をそろえ、歌声もにぎやかに漕いでいったし、そうでない人たちは小舟を仕立てて波の上を東へ進んでいった。海岸に立って見送ったそれらの光景が、今も私の目に残っている。
 娘たちはさだめし椿油をつけて髪を結いあげ、おはぐろで歯を黒ぐろと染め、もよりもよりに誘い合っていそいそと出かけたでもあろう。明け易い夏の一夜を寝もやらず浴衣を縫いあげてお詣りにいったと、母は若い日をしのぶように話すことがあった。これといって聴くものも観るものもない時代では、それが唯一の慰安であり、またとない行楽でもあったろう。
 しかし、私たち子どもは連れてもらえなかった。やや長じては学校が休みでないためもあったが、お土産はお菓子くらいがせいぜいで、たまに彩色した木彫りの舟とかはじき猿とか風車などをもらうことがあったもののありふれていて、霊験あらたかな日高見神社も、子どもにはあまり御利益がなかった。
 空も海もよく晴れた午後であった。神輿が船をつらねて海を渡る盛儀を見ようと波のかなたへ目をこらし、笛や太鼓の囃子を聴こうとはるかに耳をそばだてたことがあった。が、かすむような遠景では、それらしい動きが感じられ、それらしいものをかすかに聞いたような気がしたにすぎなかった。
 陸続きであったら、夜空などへはあるいは行けたかもしれないが、昭和三十三年の九月に、当時は大島小学校長で現在は階上中学校長の小山正平氏が公刊された「黒潮の果」にあるように「明治初年まで唐桑と大島の間によく外国船が停泊した。すると必ず暴風雨があって、黒人をして不吉のこととされたと古老が云っている。それは暴風雨を予測した外国船が潮流を利用して避難したのであった。」という海を距てていたのでは、もはやどうにもならないし、トム・ソーヤーオーもどきの冒険など思いも浮かばなかった。
 そんなわけで、祭礼のとき、無形文化財の虎舞が奉納されたり、木彫の舟やはじき猿は豊漁を祈り難をはじくといった縁起を祝う民芸品であることを知ったのは、近年になってからであった。
  島と唐桑にそり橋かけて、
  渡りたいぞやただ一度。
 これはよく知られた民謡で、対岸のまつりで思いだしたが、あまり文学的とはいえないし、そり橋は華麗なようでも、この謡には不調和に感じられるのは私だけであろうか。
 “ただ一度”は“ただの一度だけ”とか“ただの一度だけよいから”とか、もっと控えめに“たった一度でもよいから”とか、人によって受けとり方に何ほどか違いがあるかもしれない。
  島で亀山、唐桑で早馬、
  気仙気仙沼で安波山。 
 これは郷土の景観をほこったものか、あるいは他の動因から生まれたものか、そのこころも発想もはっきりしないし、固有名詞を羅列してそこになお詩情がただようといった謡でもないが、その生命を支えるものは島甚句のメロディーと地方に密着した名詞と、しいていえばその歯切れのよさでもあろうか。
  色は黒くとも島根の海苔は
  白いご飯の肌を巻く。
 これはよい。“島根”の本来は“しま”とか“しまぐに”だが、ここでは小島の礁であろう。この島はあるいは潮の干満によって見えかくれするほどのものかもしれない。磯の娘の心意気をなまめかしく情緒ゆたかにうたいあげた。
 楽しくておもしろいのは、むしろ囃子ことばであろう。からかい過ぎとも自嘲とも考えられるふしもないではないし、註釈を加えないと他郷の人には理解し得ない用語もいくつかあるが……。
  イカさん、タコさん、ナマコさん、
  あとからホヤさんほういほい。
  とこやっさいとこやっさいな。
とこ、在郷のこけあんこ、
  ひっこさカデ飯つめこんで、
  畑のすまこで、たんとたんと。
  とこやっさい、やっさいな。
とこ、はたけの胡瓜、
  しぼれば水あ出る、ざんぶさんぶ。
  とこやっさいとこやっさいな。
(-一九六三・二・二五-)

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この記事を書いた人

詩と童話の世界に魅了され、水上不二の作品をテーマにしたブログを運営しています。子どもの頃に読んだ彼の童話が心に深く刻まれ、それ以来、彼の詩や物語に込められたメッセージを探求し続けています。

文学を学ぶために大学で日本文学を専攻し、卒業後は国語教師として勤務。その後、自分自身の言葉で水上不二の世界を語りたいという思いから、ブログを立ち上げました。

趣味は読書、美術館巡り、そして詩の朗読。特に、水上不二の詩を声に出して読むと、彼の言葉が心に染み渡る瞬間があり、それが私の人生の喜びの一つです。

このブログを通して、水上不二の作品を通じた感動や発見を皆さんと分かち合い、詩と童話の世界を広げていけたらと願っています。

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