からくわ民友新聞 唐桑につながるもの5

1963(昭和38)年4月25日(木) 唐桑につながるもの5

   ~懐かしむ唐桑行脚~

時は惜しみなく流れて、昭和三十二年になった。私は大島中学校の校歌を書き、芥川也寸志氏が作曲された。このとき、小松勝吉校長から送られた資料によって、鹿折と浦島の校歌を巽聖歌が作詞していることを知った。口語体の自由な発想に新しい時代があった。
 大島中学校のについで、私は唐桑中学校の校歌を作詞した。校長は郷友の小山喜与平氏で、第五代とか。第二代は小松勝吉氏で、第三代は近藤幸一氏だったという。
 唐桑は近代的な装備を施した多くの鋼鉄船をもつ日本有数の遠洋漁業の根據地であり、七つの海に活躍する海の人と、そのるすをあずかる女性をつくることが教育の大きな指標であることを、小山氏は強調した。それで夏休みに所用で来京したときは、一夜を私のところに泊まって歌詞を検討し吟味したが、その執拗なほどの真剣さには、さすがの私も僻易した。
 作曲は東京大学の末広恭雄教授にお願いすることになり、あくる日、世田谷区松原町のお宅を訪ねた。この道でも造詣の深い魚の博士は、少年の頃すでに作曲を志したが厳父の反対でこれをはばまれ、ちっとも船に酔わなかったことから海の学問を専攻するようになったと、作曲の喜びを語りながら快諾された。あとで思うと、尊父は有名な新聞人の末広鉄腸居士であるらしい。
 その足で、私たちは神田の中小企業研究所を訪ねた。さいわいに伊藤武氏は執務中であった。両者の再会は、たぶん四十年ぶりくらいではなかったろうか。互いに今昔の感にたえない面もちであった。
 曲が出来上がったのは八月の末ころでもあったろう。編曲は助川敏弥氏で、同氏は昭和三十年の毎日新聞の音楽コンクールの作曲部門で第一位を獲った新進であるという。
 発表会は十月一日に行われた。
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 開けて三十三年には、元日そうそうに白山小学校の校歌発表会が、三月三日には津谷中学校のそれが催された。作曲は前者が芸術大学の長谷川良夫教授で後者は芥川也寸志氏であった。
 残暑の八月三十一日から二日間、唐桑に夏期教養講座が開設された。私も招かれて末広博士と同道した。三十日の薄暮に気仙沼駅に着き、待っていた自動車で唐桑に向かった。出迎えの人のなかには父母教師会長の鈴木俊平氏もおられた。ヘッドライトに映し出される道の両側の地層が美しかった。
 天然記念物の二本杉を夜空に仰ぎながら旅館にはいった。ここの小学校での同僚であった鈴木哲夫氏は今は教育長で、旅館の主人でもあった。小野寺和平氏は小学校長で、公民館長も兼ねているという。なつかしい夕べであった。
 あくる三十一日の午前は第一会場の唐桑中学校で校歌の合唱を聴き、生徒を対象に私は校歌から詩のことを語り、末広教授は外遊土産のカラースライドや科学映画を映しながら話された。
 昼の休みに校内を一巡したが、水産教育の資料を集めた水産館は昭和二十八年の落成とか、さすがにと肯かせるものがあった。
 午後は東北大学の丸山健氏や市町村吏員養成所の坂田重三郎氏らと、御崎や巨釜半造の見学に出かけた。助役の佐々木芳三郎氏が案内された。
 「ジュラ紀層の触手、つばき咲く防波堤」の突端に、静かに潮をたたえた陽沼や陰沼をのぞき、八そうびきの岩肌をながめた。岩の上に幼児の置き忘れた母親の祈りに応えて、神が朝までその子を護られたという伝説の岩の名は何といったか思い出せないが、鳥居の前の浜の色とりどりの石は卵のように磨かれて、踏むには惜しい集落であった。私も二つ三つ拾った。熱帯植物のタブの木や北限植物というトベラは見おとしたが、鯨塚の碑はめずらしかった。
 巨釜・半造はリアス式海岸の圧巻でもあろうか。海中にそそりたつ十数メートルの折石の奇観は目に鮮やかであった。
  青い海のなかに、
  潮を浴びて立つ巨人の像、
  たぶん地球の歴史とおない年であろう
  あの岩は、
  素晴らしい自分について、
  今もって何も知らないだろう。
  りっぱだ、とにかく。
 三陸新報の今年の元旦号に、私はこんな断章を書いたが、もちろんこれはこの岩の一面を素描したものにすぎない。
 北の巨釜には安倍貞任がかくれたという岩窟や源義家にゆかりの八幡岩があり、南の半造には潮噴き岩やトンネル岩や東風穴といった造形も見られるというが、いずれは一平方メートルあたり強いときには三万トンもある圧力をもつという海蝕作用とのたゆみない戦いによって生まれた岩の美学であろう。
 あくる九月一日は午前に第二会場の小原木中学校にむかった。ここに見る海の色は紺碧に澄んで、これが外洋かとあやしまれるほど静かであった。水産学校のころ高田の松原へ遠足にいったとき、このあたりを通ったかもしれないが、私には全く記憶がなかった。岩手県に近く、海の気もひときはさえざえと感じられた。二、三年前に能登半島を旅する機会があったが、海に迫る山はだの道を曲がりくねっていく車のなかで、この小原木への道をゆくりなくも思いだしたりした。
 午後は第一会場にもどって、町の人たちを対象にした講座であった。はじめに私が壇にあがって、できるだけ平易にと詩の話をしたが、会場に満ちあふれた人々のなかには、私を知っている人やかつての教え子などもいるかもしれなかった。案のじょう、末広氏の講座がすんで場外へ出たとき、私は中年の婦人に声をかけられた。鹿折小学校時代の小梨まりや先生であった。何年か前から鯖立とかに住んでおられるとか。高等科の女性が受持で、さばさばした人柄は対応にもおちつきと気品があると思ったものだが、まことに三十数年ぶりのめぐりあいであった。

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この記事を書いた人

詩と童話の世界に魅了され、水上不二の作品をテーマにしたブログを運営しています。子どもの頃に読んだ彼の童話が心に深く刻まれ、それ以来、彼の詩や物語に込められたメッセージを探求し続けています。

文学を学ぶために大学で日本文学を専攻し、卒業後は国語教師として勤務。その後、自分自身の言葉で水上不二の世界を語りたいという思いから、ブログを立ち上げました。

趣味は読書、美術館巡り、そして詩の朗読。特に、水上不二の詩を声に出して読むと、彼の言葉が心に染み渡る瞬間があり、それが私の人生の喜びの一つです。

このブログを通して、水上不二の作品を通じた感動や発見を皆さんと分かち合い、詩と童話の世界を広げていけたらと願っています。

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