1963(昭和38)年5月5日(日) 唐桑につながるもの6
~図らず母校で講演~
そのとき、いっしょにいて声をかけた女性は誰だったろう。浦島時代の生徒にはちがいないが、ついききそびれてしまった。あとで小梨先生に、誰であったかとはがきでたずねたが、返事はもらえなかった。
午後四時ころ、唐桑に別れを告げて、小山校長たちと巡航船で気仙沼にむかった。そして、鹿折出身で水産学校が同級の小野寺覚治郎氏が奥さんにやらせているという南気仙沼駅前の松江荘におちついた。途上で会った大島小学校長の小山正平氏に同道をねがって、末広博士にひきあわせることができたのは喜ばしかった。その晩、博士は一人がよいというので、近くの二位屋に宿を移された。おかげで私はながめのよい二階の一室を独占することになった。
三日は、十時から白山小学校を訪ねた。校長の熊谷正志氏は鹿折時代の同僚で、かねて招きを受けていた。この学校の木版画の素晴らしいことは耳にしており、すぐれた多くの作品に接して感銘をあらたにしたが、その愛らしい芸術家たちによる校歌の合唱には心にしみるものがあった。これが白山分教場のころ、みんなが集まってとろろ飯の会で十三杯も平らげたことを生徒たちに話したのも、なつかしさの余りであった。
白山小学校を辞して、気仙沼水産高等学校で末広氏とおちあった。氏は来訪した三陸新報の記者に「マグロの血液検査に再びやって来たい。」と語って午後三時ころの列車で帰京の途につかれた。
この学校で、伊藤武氏の令兄の富雄氏が先生をしておられた担任の生徒に何か話してくれとのことには、突然ではあったがことわるわけにはいかなかった。紹介されて黒板の前に立つと、思わず熱がはいって、二十分ばかりというのが四十分くらいにもなった。熱心に耳を傾けている若い魂たちを前にしてはどうしてもそうならざるを得なかった。恥多い水産学校時代の回想が今を生きることの問題と結びつくままに、学業に専念することの意義と重要を語ったように思う。
あくる四日は、松江荘に同級会が開かれた。が、集まったのは幹事役の小山、近藤両君と会場を提供した小野寺君のほかには、西城盛、鈴木軍太郎、吉田潤蔵の諸兄と私だけで、合流したのは一年後の朝倉橘男、遠藤磨、及川陸三郎の三君くらいではなかったろうか。大先輩で市の教育委員長である足利直治郎氏は、温容にたえず微笑をたたえておられた。ほかにも誰かいたかもしれないが、それでなくても肩がこるのに旅の疲れに連宿の酒も手伝って、どうにも私は元気が出なかった。それにつけても、写真の一、二枚は欲しかったと、私は今も残念に思っている。
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昭和三十五年の秋、教壇を退いて水族館長になった伊藤富雄氏から、巻紙に筆で書いた丁重で手紙をいただいた。 観光宣伝のようにのれんを作りたいからそれにふさわしい民謡をとの依頼で、菅野青顔氏の意見もただしたとのことであった。私は喜んで承諾した。
雲よ、かもめよ、潮ふく岩よ
百合はリアスの磯に咲く。
が、それからいくばくもなく水族館は市に移管され、それを機会に伊藤先生は辞任されたらしく、のれんは遂に実現しなかった。視点を気仙沼湾全域においたつもりも、あまりよい出来ではなく、文字も気にいらなかったので、これはもっけの幸いであった。
そのころでもあったろうか、私は唐桑中学校の三年生のs・k子さんから手紙をもらった。詩がすきで書いているから見てくれないかとのことであった。弁論や体育クラブなどの行事に追われ、予習復習をしていると十一時になるといったふうで、身に寸暇もない状態らしかった。が、然も詩や小説へのはげしい意欲を示していることに感心し私はそれを承諾した。
なお、詩を作るといっても、別に秘法があるわけではなく、よい詩を読むこと、多く書くこと、作品をよく推こうすることそういったことが大切なことはほかの文学と違うはずはなく、また学業をないがしろにしてよいわけのものでもなかった。私はそのことも返事に書いた。
待っていると大学ノートに百篇ぐらいの詩が清書して送られてきた。あわただしい中学生活の中での二年間の労作だという。が、通読して、目につく数篇はあったが、全体としてはもう一息というところであった。
さて批正という段になって、原稿での二三篇ということであれば、原作をあまりそこねない程度にペンも加えやすいが、しっかりとノートに書きこまれたのでは、どうにもためらわざるを得なかった。K子さんにしてみれば、やっぱりきれいに書いたものを見せたかったろうし、そのためにはいっそう忙しい思いもしたであろうが、その人をちっとも知らない私には、その感じやすい年代のことも思われて、やたらなことはできなかった。それに健康やそのほかの事情も私にあって気がつくと、はや一年近い日が過ぎていた。私はいよいよ窮したが、いつまでも手元に置いては却ってめいわくをかけることなので、数篇に手を入れ、概評を添えて、心ならずも返送した。
K子さんはもう高等学校も二年生か三年生であろうか。私の怠惰と誠意のなさを、さだめしおこっているであろう。はなはだ申しわけのないことに思っているし、二三篇ぐらいずつならいつでも見せてもらいたいと私は望んでいるのである。
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