1963(昭和38)年5月17日(金) 小金井手帳⑪
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さきに、伊藤武君にもらった二冊の「詩歌」について書いたとき、白日社の歌人に和田山蘭の名をあげたが、和田氏は若山牧水の「創作」の人であったことに、あとで気がついたので、このあやまりを訂正する機会を得たいと思っていた。
ところへ、二月七日付の朝日新聞の夕刊であった。ふだんあまり読みもしない「新人国記」の佐賀県の部の小見出しに、ふと“哀浪の記”とあるのを見て、はっとした。 鳶の声近し干潟のムツゴロウつかの間にして食われたるらし
読んでみると、これが「郷土の歌人・中島哀浪の歌だ」 とあった。
なんとしたことか、この人こそ熊谷武雄大人と「詩歌」で雁行していたことを思い出した。
ふるさとの山よ川よと帰るとも世のよぼよぼの隠遁ならず
そして十年前の冬、七十才のとき、こう歌って、旧佐賀市から金立山の川久保にひっこんだと書かれ、短歌誌「ひのくに」を四十年も守ってきたとあったが……。
まんなかに秋風の海をさしはさむ龍舞の岬これは岩井崎
気仙沼湾の入口をこううたいあげた武雄の大人が昇天されたのは五十四才ー昭和十一年八月二十一日だというから,それから二十七年の月日は流れたわけだが、もし現存されたらと、またしても健康をこそと痛切に感じたことであった。
愛惜のよすがに、いつか本紙の「万有流転」がとりあげていた作品の中から、海につながる佳吟をもう一首あげておきたい。
捕鯨船いまだ帰らず荒海の天うつ浪に月おし照れり
短歌といえば、数年前に教職を去った近藤幸一君が去年あたりか六十の手習いをはじめたとあった。初心といっても根っからの駆けだしではないことは次のような作品からもうかがわれるし、この人の生来や教員生活からして、素地が日常に培われていたであろうことは、想像にかたくはないが……。
松原を往き来の人の疎くなり海蝕の崖に夕日かがよう
不気味なる夜を霧笛の鳴りつぎて雨しぶきたり時化いたるらし
海鳴りの高まりひびく夜半にして台風去ると有線放送は告ぐ
去年の秋孫が放ちし馬追いのその子なるらし厨に鳴くも
ひげ剃りて鏡のなかに生き生きとわれありグレーの髪くしけずる
そして先般、筏井嘉一氏がする主催する「創生」という短歌の結社に参加し、かたわら書道にもいそしんでいるようだが、高血圧をいたわりながらの意欲と精励には、まったく敬服のほかはない。自愛自重が望まれる。ところへ、近ごろになって、大島の出身で、いまは新月駅前にいるという白幡郷八君から、やっぱり短歌をはじめ、これも数年前に小学校を勇退した小野寺松治郎君と連れだって近藤氏を訪ねたという便りがあった。
春の潮碧く冷たしその中にわかめ大きく伸びてなびけり
枯れ葉の沼べかぐろく日は落ちてシグナルの青遠くまたたく
近詠はこういたところだというが、ぜひしっかりやって欲しいと思う。
○
私も北原白秋の「多麿」で短歌の勉強をはじめ、歌会に出席して先生の励ましを受けたりもしたが、児童文学と二足のわらじのせいもあってか、どうにも息が続かなかった。
全国区選出の参議院議員で、日本教職員組合の初代委員長であった岩間正雄氏や、短歌詩「コスモス」を主催し朝日歌壇の選者をしている宮柊二氏らはぐんぐん出て、今日を成したが……。もう二十年も前のことになる。
近年になって、またぞろ短歌への触手は動くが、現在のところ心にも体にもそのゆとりがない。そこをやっていくのが本当なのだと解ってはいるつもりでも、かんじんの実践はそれについてきてくれない。別にすぐれたものを作ろうとも思っていないが、どうにも打ちこめずにいる。たとえ日記がわりにしろ、もしやるとすればデッサンからやり直さねばならないであろう。
閑古鳥、木の芽田楽、山ずみのこの一日も無事にすぎにき
社会派とか、前衛派とか、いろいろの新しい動きもさることながら、このような作品を読むと短歌はいいなと思う。この抒情は、この音律は、日本語による表現の極地ではないかとさえ、ついうっとりとしてしまう。
ー一九六三・四・一七ー
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