1957(昭和32)年12月7日(土) 小金井手帳(下)
(下)
たしか九月二十七日だったと思う。夕方、久かたぶりに銀座へ出かけた。「ろばの会」の第一回発表会をのぞいてみようと思いたったのだ。一念発起というわけか。
「ろばの会」は、磯部とし、宇賀神光利、大中恩(めぐみ)、中田一次、喜直兄弟といった五人の若い作曲家たちが「よい詩によい曲をつけるために、外部からの依頼だけでなく自主的にこどもの歌をつくろう」と結びついたグループで、それから二年あまりがたったという。
会場のガスホールにかけつけたのは定刻を一時間もすぎた七時半ころで、第一部はもうすんでいた。いくつかの知った顔とあいさつを交わす時間があった。
やがて安西愛子さんの司会する第二部がはじまり、中学三年生になったという伴久美子さんは、きものであったが、むしろ洋服が身につくかと思われた。ついで、松田トシさんによる第三部が進められたが、わたしは途中で座を立った。それでも全部で三十くらいは歌をきいたろうか。
音楽のわからないわたしには、今夜のできばえや成果については何もいえないが、ラジオの“うたのおばさん”二人のどちらもが、はちきれそうな健康に輝いていることに目を見はらされた。二階から三十度くらいの角度の鳥かんで、実際よりはずんぐりと見えたのかもしれないが、何とかというドレスは肩から腕があらわで、筋肉がたくましく盛りあがっていた。わけても安西さんは松田さんよりもひとまわりもふたまわりもすばらしかった。「やっぱり音楽会はいいな。小金井で女の人たちを見ていると三寸のにんじんの行列か、できそこないのねぎみたいなものだと思わせるが、今夜は驚いたよ。女性観どころか人生観まで変わったよ」
十時をすぎて家に帰りついたわたしは、自分のひ弱なからだのことを忘れて、うちの子たちを笑わせた。
健康は美しい。健康は何にもまして羨ましい。
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