1961(昭和36)年8月24日(木) 小金井手帳4
(4)
それは昭和三十年のころであったらしい。季節は秋で、しのぎやすい気候であった。
昭和二十六年の夏以来療養生活を続けていた私は、その日も病院から帰ると、板の間のちゃぶ台を前に、一人で昼飯を食べていた。午後も一時を過ぎてやがて二時近くでもあったろうか。
うちの者がどこかへ出かけてるすだったのは、高等学校三年生の三女がめずらしく家にいたからであったろう。いるとなればうようよいるし、いないとなると、勤めに出たり学校へ行ったりして、空をとどろかして過ぎる飛行機の音のほかには、ほとんど真空に近い状態におかれるのが一般であった。
ひっそりと箸を動かしていると、玄関で誰かのけはいがした。三女が立っていった。そして1枚の名刺をもたらした。共同印刷株式会社の取締役で資材部長である伊藤武氏のそれであった。
私は首をかしげた。それが同名異種でなければ、共同印刷株式会社はかつて深刻な労働争議の場となり、中心人物として闘った徳永直がその体験にもとづいて書いた小説が「太陽のない街」の舞台となった大企業体にちがいなかった。どう考えてもそんな会社の重役が私を訪ねてくるわけがなかった。
しかし、どんな名をかたってどんな人間がやって来ないものでもない。ひょっとしたら、そんなことであるかもしれない。が、何がどうあろうと、それでどうなるはずの私ではなかった。何を警戒することがあろう。そそくさとお茶を飲むと、名刺をつかんで玄関へ行った。
ところが誰もいなかった。ますますおかしかった。もしやと思って奥の部屋へ行った。すると、いた。中年の偉丈夫が、のっしりと畳の上に立っていた。見ると、ダブルの背広服をゆったりと着て、ポケットに両手を軽くつっこんでいる。見も知らない男であった。
「とんだ客が舞いこんだらしい。」
一瞬、私は立ちすくんだ。
が、あいては依然として迫らない風姿であった。そして私のとまどっている様子を見てとったのだろう。
「伊藤だよ、わかるか」と、そんなふうにいった。
「伊藤」は名刺で見て分かっているが、その伊藤が誰であるかが分からないからまごついているのだ。
「うむ…。」
私はうなるように答えた。が半ば反射的にうなっただけで、それは答えにも何にもなっていなかった。
それから何やら短い言葉が交わされた。
すると目の前がはれたように、忽然とその人の影像が輝いた。
「あっ、そうか」
伊藤武君だったのだ。私たちは手を握り合った。
どこでどう別れたのが最後であったか?この再会はおそらく三十数年ぶりであったろう。まだ郷里にいた大正十一年か十二年のころ、鎌倉から便りをもらって以来、おたがいに通信も絶えていた。ーーその人がやって来たのだ。天井の低いわびしい部屋に、私は花の開く思いだった。
娘は近所の店で和菓子をもとめ、型のようにお茶を用意してくれた。が、それからビールにするつもりだった。
療養中の私は、たばこはすい続けながら、酒は一口も飲まなかった。同病のある人は、「それはあべこべですよ。酒は飲んでもたばこはよすべきですよ」と忠告してくれたが、どういうものか、依然として改まらなかった。そんなわけで、酒と名のつくものはすっかり返上した私であったが、それとも知らず誰かがビールをくれて、それがそのまま取ってあった。で、私はいった。
「ビールにしよう。」
そのうちにうちの者も帰って来るだろう。ゆっくりしてもらうつもりだった。ところが、返事は、はじめから数を限っていた。
「じゃ一本だけもらおうか。」
それは、彼が私のようにじだらくな酒徒でなかったからでもあろう。
きけば、以前から会いたいと思ってはいたものの住所が分からず、講談社に電話できいてやっと訪ねて来たという。小金井は都心からかなりの距離でもあった。
が、せっかく来てみれば、回復期にあったとはいえ療養にあけくれている私であった。意外でもあり、気の毒にも思えたろう。何やら話しているうちに一時間ばかりはあわただしく過ぎた。もう一本とすすめたが、彼は受けなかった。
「また来るよ。元気になってくれ。」
と励ましながら席を立った。
忙しくもあったが、私の健康への配慮もあったろう。私は戸外へ見送って出た。
すると、またも驚かされた。さわらの垣根の外に、何とやらという乗用車がしずかに主人を待っていたではないか、それと知っていたら運転手さんにのどをうるおしてもらうのだったのにとまことに世に疎い私であった。車はしずかにすべり出した。
この頃でこそ、自動車がふえにふえて、AもBもCも乗り廻しているし、雑誌の編集者などがたまに会社の車を走らせてきたりもするが、その頃は思いもよらないことであった。遠方からの客は別として、私の家へ来るほどの人は、電車やバスに乗って、それから歩いて来るものと相場はきまっていた。 つまり、伊藤氏は自家用車を駆って訪ねて来た最初の人であった。
この人が二度目に訪ねて来たのは、あくる年のやっぱり秋であった。常務取締役へと、地位は更に進んでいた。この日もうちの者がるすだったのは申しわけがなかったが、デラックスな自家用車は見逃さなかった。端所ではあったが、運転手さんにも休んでもらった。
私はまだときどき病院に通っていた。ものを見るたびに取ったり外したり、老眼鏡は手放せないものになったし、肩のこりがいっそうひどくなったのもこの頃であったろう。その日もビール一本と一時間ばかりが限度だったように思うが、見舞いの果物かごはかたじけなかった。
私が共同印刷を訪ねて行って伊藤氏の室であったのは、法務府教官といういかめしい名の少年院勤務をやめてぶらぶらしていた長女に新しい勤め先を見つけてもらうためだったろうか。社長の弟で現在は社長をしているらしい大橋貞雄氏が近くの白山御殿町で出版社を経営していて、そこに勤めていた友人に会う利便にも恵まれた。
三女が銀行に勤めることにきまり、保証人になってもらうために経営の家を訪ねたのは、その前であったろうか。夫人も令嬢もはじめての人で、応接間にはピアノがずっしりと置かれてあった。
当時は大島中学校の校長をしていた小松勝吉氏の懇請にほだされて、九年ぶりに郷里へ帰ったのは、この年の十一月ではなかったろうか。とすれば、昭和三十一年ということになるが……。
伊藤氏が中小企業研究の常務理事に就任したのはいつであったのか。その時期はつまびらかにしないが、この転身は深く感ずるところがあってのことに違いあるまい。
昨年であったか、衆議院議員選挙のとき、立候補するから推薦人になるようにといってきた。便箋1枚に簡潔な走り書であった。政治というものは分からないし、選挙というものに興味はないが、一票がだいじなのはまちがいのないことだから、役に立つのならどうとでもするようにと返事をした。
ところが、その準備のために出かけた途中の仙台で病気になり、断念を余儀なくされたという手紙を、日ならずして受けた。残念だった。彼の意中が思われた。が、大切なのはからだだ。何といっても健康だ。どんな肩書きも、いかなる識見も、死んだら弔辞を修飾するに過ぎないものなるだろう。想い出ばなしをもう少し涙っぽいものにするのがおちだろう。たぎるような勢いをおさえて、じっと後足をふまえたことは、明日への賢明な自己制御でもあったろう。
この間、うだるような暑さのやり場にもと、久方ぶりに電話をして、伊藤氏とも夫人とも話したが、どちらも元気な声であった。
きけば、彼は中小企業研究所の仕事に主力を注ぎながら、その実験形態でもあろうか、日本スーパーマーケットセンターの社長として運営にあたり、先ごろは大船渡へ行ってきたという。ほかに、大学図書を刊行する世界書房の社長と同栄金属株式会社の代表取締役を兼ね、この二つは業務を友人に委ねているとか。
これまでの店舗を改装したスーパーストアは小金井にもできたが、これを追うように工事を進めている鉄骨建はある有力資本が経営するスーパーマーケットだという。時代は動いていく。
伊藤氏のそれはそれなりに、気仙沼へでも大船渡へでも進出して欲しいし、進出するだろう。そして、これはいい古された言葉だが、よい品を安く供給してくれるだろう。人びとの生活を豊かにし、人びとのしあわせのために奉仕すること!それが才腕をうたわれるこの理想主義者の悲願であることにまちがいはあるまい。
(一九六一・八・三)
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