三陸新報 小金井手帳5-1

1961(昭和36)年9月2日(土) 小金井手帳5-上

(5) 上

 大島中学校の校歌制定記念碑の除幕式は、開校記念日をぼくして四月十五日の午後一時半から行われたが、あいにくの雨だったという。十六日の本紙の写真では、誰かが長靴にこうもりがさをさして碑に見入っていたし、「今日を祝い、菅の貴兄の話で酒が廻り……」という明海荘主人の手紙のあとで菊田征市氏から送られた十数枚のスナップでも、皆さんがかさをさして寄りつどい、ある人は玉串を捧げていた。祝詞とか式辞などの場合は、誰かがかさをさし添えたでもあろう。
 せっかくの行事におりからの雨で、校歌を作り碑の文字を書いた私は、皆さんに申しわけがなかった。すまない気持ちでいっぱいであった。時間をうっかりしてウナにした祝電が、果たして式典にまに合ったかどうかも気がかりであった。
 ところが、別項の記事によると、前夜から降り出して午後三時に三十ミリを記録した雨量は、雪ぐされ病や生理障害をおこした麦にも、三月初めから異常乾燥注意報を出しっぱなしだった消防署にも、待ちに待たれた恵みの雨で、さくらの開花も早められたとのことに、ふっと心の安らぐものがあった。
 そういえば、広重の版画にも描かれた“さくらの小金井”も事情は同じで、私の家でも数本が若木なりに花をつけてはいたものの気象は乾きに乾いて、井戸の水を気づかったりしていた。そこへほこりをしづめるにも足りないほどではあったが、久方ぶりの雨であった。その日の夕刊は、都心のおしめり風景を写真入りで扱ってはいなかったろうか。
    ◆
 大島中学校の産業教育研究の成果が公開された昭和三十一年十一月六日の午後も夕暮れに近く、校歌制定後援会の集まりがあった。私には九年ぶりの帰郷であったが、二三十年ぶりの知己や友人も多かったろう。会の目的や性格からでもあってか、議題らしい議題もなく、会場は和気と親愛に満ちあふれていた。
 ただ困ったのは、亀山のどこかに建てるという記念碑のことであった。その話は以前からあったし、半ば観念はしていたものの、いざとなると、気持の上でやっぱり踏み切りがつかなかった。きっぱりとことわりたかった。が、どうにもならなかった。こうしてあたたかい愛情と寛容に包まれると。それだけで胸がいっぱいで、それはもう至上命令でさえあった。男らしく受けて立つしかなかった。ただ、世に行われている特定の個人の詩碑とか歌碑ではなく、あくまでも校歌制定記念碑であることの一條は、その席でものべ、役員の方がたにも念を押した。これはあるいは女々しいわざといわれるかもしれないが、私にしてみれば精いっぱいの努力であった。
 校歌の発表会はあくる年の四月二十一日に行われた。京都へ北海道へと飛び廻っている作曲者の芥川也寸志氏を誘い、同伴の夫人を案内して、私は発表会に臨んだ。
 気仙沼の駅に着いた二十日の朝は雨のあとで、校長を勇退した小松勝吉氏と、それに代わった小野寺勝夫氏と、大島小学校の小山正平氏が、私たちを迎えてくれた。実は、その前の汽車を皆さんが待っていたのだが、来ないので、本紙の記者だけを残して、退散してしまったという。
 それというのも、昨夜、私の上野到着がおくれ、動き出した急行“岩手”を目の前にしながら、空しく見送ったからであった。が先着の芥川さんたちは私を待ち次の“おいらせ”を待って、しかも何ともいわれなかった。それどころか、無効になった寝台券のことをたずねてくれた。八方へ申しわけない仕儀であった。
 ハイヤーで海岸通りに出て、菅原長之助氏のお宅でひと休みした。港がひと目に見える二階であった。みどり夫人が出された色紙に何やら書きかけてとまどっていると、折りから来訪された俳人の川口仙秋氏がそばから助け船を出してくれた。芥川氏は何と書いたか。二人のお子さんを東京に残して来られた画家の沙織夫人は、すすめても彫りの深い微笑を浮かべてばかり、私たちの所作を眺めながらおさしみか何かを賞味していた。
 腰をあげて、魚市場を見に行った。時間の関係で魚がちっともなく、人影もほとんど見えなかったが、貨車の引込線を幾條もならべて、すばらしい機構であった。海と魚と人と!この近代施設は芥川さんたちにも珍しかったのであろう。屋上の展望台へ、靴の音をひびかせながら、鉄のはしごを登って行った。
 思えば、何と時間の長い一日であったろう。私たちは、それから大島へ渡った。巡航船は、かきいかだの間を進んで行った。芥川氏は何かと質問していた。
 大島にたった一台というオート三輪車に椅子を六つならべた珍無類のオープンカーは、スリップしたり、ストップしたりしながら、赤土の道を亀山へ登って行った。あとで気仙沼でくるまに乗ったとき、「大島のとは違いますね。」と、芥川氏は微笑した。
 大島神社の前を過ぎて左に折れると、地ならしをした一角に台座が据えられ、柱の石がかたわらに転がっていた。そこに車を止めて、それまでのいきさつを聞き、松の木の膚が傷を受けているのを見た。こうなっては、もうのっぴきならなかった。が、私の思いにかかわりなく視界はいよいよ開け、車はついにいただきに達した。私にも久しぶりの景観であった。
 二十一日は朝から晴れた。中学校の講堂を会場に、校歌の発表会をはさんで、さきには小野寺庄五郎翁が受けた紺じゅ章の伝達式が行われ、あとではNHKののどじまん演芸大会が催された。大島をあげての賑わいであったろう。宮井市長、広野商工会議所会頭、幡野教育委員長、鮎貝県会議長、田中志津川町長などの要職の人びとも私にはすべて初めての接触で、県会議員の菊田隆一氏だけが水産学校以来の旧知であった。この日、臨席された近くの小学校や中学校の校長を代表して、気仙沼中学校の畠山泰二氏が「私の学校でも校歌を作ったが、作者にも作曲者にも来ていただけなかった。ところが御校では両方ともお招きできて羨ましい。」と述べられた言葉は、何か心にしみるものがあった。

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この記事を書いた人

詩と童話の世界に魅了され、水上不二の作品をテーマにしたブログを運営しています。子どもの頃に読んだ彼の童話が心に深く刻まれ、それ以来、彼の詩や物語に込められたメッセージを探求し続けています。

文学を学ぶために大学で日本文学を専攻し、卒業後は国語教師として勤務。その後、自分自身の言葉で水上不二の世界を語りたいという思いから、ブログを立ち上げました。

趣味は読書、美術館巡り、そして詩の朗読。特に、水上不二の詩を声に出して読むと、彼の言葉が心に染み渡る瞬間があり、それが私の人生の喜びの一つです。

このブログを通して、水上不二の作品を通じた感動や発見を皆さんと分かち合い、詩と童話の世界を広げていけたらと願っています。

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