1961(昭和36)年10月8日(日) 小金井手帳6
遠藤君!ぼくの家でもやっと電話がひけたよ。〇二三ー八局の〇四五三番だ。鉄筋コンクリート二階建ての小金井電報電話局ができたのだ。
開局は八月六日の午前零時だったが、去年の八月に共同電話を申し込んでおいたのを、間近になって単独に変更したので、通話の開始がおくれたのだ。といっても、工事が予定どおり進まなくて、開局にまにあったのは既設のものと新規は単独の分だけで、共同電話とその後に変更のあったものはすべて後まわしになったというから止むを得ないというわけさ。
ぼくがはじめ電話の架設を申し込んだのは昭和三十一年の二月四日だった。立春大吉というわけだ。が、いくら待ってもひいてもらえなかった。
何しろ相手の小金井郵便局は機能の極限まで回線をふやしにふやしても累加する需要をまかないきれず、一般に優先するという医者や営業者の分さえさばきかねていたのだから、家庭用などはどこまでも後まわしにされてきたのだ。そこへ自動式の〇二三ー八局が誕生したというわけさ、新しい局の発足をいちばん喜んだのは、あるいは小金井郵便局ではなかったろうか。
ところが、よくしたもので、われわれが電話にありつけるようになった時は、それを待っていたかのように、そばやうどんや安物の一つや二つは配達しなくなるだろうというのだから、世の中はうまく出来ているというものさ。
おまけに、「出前をやるのは日本だけで、外国にはそんなものはありません。」とおかもちをひっさげた若い従業者さんたちに、見てきたように説諭され、「なるほど、そうだったのか。」と、こっちが恐縮する仕末だから、文明の利器はいよいよもってありがたいということにもなろう。
が、実情は雇いたいにも人がないということらしいから、せっかくの機構へつらあての様相も、あながちひがむにもあたるまい。
ともあれ、ひと言かふた言ですむ用事のため、てくてく歩いたり自転車を走らせたりなどの時間も労力も省けるだろうし、止むを得ず頼んでいるとはいえ「どこそこから電話ですよ。」と呼びに来てもらったり、こっちからかけるときは三十分も一時間も待たされたりなど、近所へめいわくをかけないですむようになっただけでも大助かりというわけさ。効用の範囲もぐっと拡張されるだろう。
遠藤君!過ぎ去ったことを持ち出すとまたしても口っぽくなるが、終戦後五、六年頃までは、電話の架設などわけのないことで、費用も千円足らずでまにあったな。それでも希望者が少なかったのだろう。向こうから加入を奨められたくらいだ。
ところが、いざ入り用となると、需要が殺到して六年半も待たされる時勢になったのだから、先を見る目のないこともさることながら、時機を失すると、どこまでも後手後手いくのが定石らしいな。たかが電話一本ひいたぐらいで大騒ぎするのもおかしいものだが、黒く光って沈黙している電話器を見ていると、このささやかなメカニズムが一連の思いを呼び起こすというわけだ。
遠藤君!せっかくの電話だ。じゃんじゃんかけてくれたまえ。料金はむこうもちだし、顔つきが見えるわけでもないから、どんなあくたいをついて来ようが、五分や十分なら笑ってがまんするよ。何しろ相手は神奈川県の川崎だし、忍耐し極限にきたら、がちゃんと受話器をおけば、それで万事はすむのだからな。ああ川崎といえば、まど・みちお氏はいよいよ本領を発揮しているようだな。神崎利子さんもすばらしいし、武藤悦子さんもさすがだ。結婚して浜松から移って来て姓が岸川となった邦須田悦子さんも、ぐんぐん迫っていくだろう。それに遠藤和多利を交えて、みんなが独自の世界を創造していくだろう。
たんぽぽさん (神沢利子)
のはらがつけた
きいろいボタン
たんぽぽさん
たんぽぽさん
ちょうちょがやすむ
かわいいおいす
たんぽぽさん
たんぽぽさん
あさり (武藤悦子)
あさりとあさりが ざるのなか
おみずのかけくら しているよ
チュッ チュッ チュッ
おつけにされるの しらないで
わいわいさわいで しているよ
チュッ チュッ チュッ
「らてれ」のアンソロジーから短いものをあげてみたが、明日の童謡は川崎からということになりそうだな。そのうち、君のところでも、久しぶりにみんなで会いたいものだ。
おくさんによろしく、お子さんたちによろしく。
(一九六一・九・五)
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