1963(昭和38)年4月12日(金) 小金井手帳8ノ1
8ノ1
もうひと月ばかり前のことになるが、去る二月二十八日の朝近くの空で、時ならぬ花火の音がした。きけば、新しくできる仮称・小金井駅の起工式が、中央線に近い畑の中で挙げられたとか。
武蔵小金井と武蔵境の間の二・四㌔㍍に次ぐ長い距離であるばかりでなく、利用者も多いので、新駅の建設はずいぶん前からさわがれ、地主たちを中心に新駅設置促進会というものまで結成されたが、地元の歩調が必ずしも一致しないとか、鉄道側の○○が過大であるとか、最近になって貨物駅の併設でもつれているとか、ちまたの声はしきりに曲折を伝えていた。それがやっと合意点に達したということなのであろう。
計画によると、上り下りの線にそれぞれ十両編成の電車が発着できる長いホームがあり、駅の本舎は鉄骨造りとか。工費の約九千余万円と用地の七千五百平方㍍ばかりは、促進会が提供したという。
工期は一年だというが、開駅をまつまでもなく、一坪八万円の十万円のと、地価ははねあがるだろう。それでも地主たちはうるおうだろうが、地主といっても株屋とか投資家ではなく、ほとんど新田開発に骨身をけずった農民の子孫や自作農になった人たちらしいから、やれやれというところか。
新しい駅の位置はわたしの家の真北からやや東寄りになるが、私の足では十五分はかかるだろう。最寄りの多摩川線の新小金井までは五分くらいだから距離は遠くなるが、待つことの多い社線に武蔵境で乗り換えずにすむことは、通勤者や通学生でなくても、ずいぶん助かるだろう。
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駅といえば、去年の七月十五日ーあたかもお盆の日のあさ新聞のむさし版に“小金井のホトケの銀さん”というタイトルで、武蔵小金井にまつわる話題がのっていた。
二十年ばかり前。踏切のそばに、ある人力車夫のために小さな碑が建てられ、そのつつましい人柄とかずかずの善行を道ゆく人々に物語っていたが、いまの雑踏は美しい善意を忘れ去り、碑のゆくえさえわからなくなったというのであった。
人力車夫の名は永井銀治郎といった。銀さんと呼ばれて、純朴そのもの人柄は村の人たちから深く愛されたという。その銀さんが、身体のきかなくなった父親のあとを継いで車のかじを握ったのは、大正の終わり、二十才のときで、できたばかりの武蔵小金井駅をたまりに、村のただ一つの交通機関として、雨の日も風の日も、縞の股引をけりあげて走り続けた。
そのころの小金井村は人口が八千ばかり、駅の乗降客も一日わずか三百人たらずだったが、銀さんの車はほとんど休むひまがなかったという。
銀さんは家が貧しくて小学校へも満足に通えず、学用品などはほとんど買ってもらえなかった。それが、毎月、ノートや鉛筆を小学校へ届けていたのも、「こどもたちにみじめな思いをさせたくないという思いやりからでしょうね」という隣人の述懐のとおりであったろう。新聞には、両手で人力車のかじを握ったいなせなはんてん姿がのっていたが、いがぐり頭の額ははげかけても筋骨はたくましく、ぐりっとした目には人なつこい光をたたえ、くちびるには柔らかな微笑がただよっていた。
作家の富永次郎氏も何かに書いていたが、氏の尊父も銀さんのひいき客であったという。ちなみに、大岡昇平氏が「武蔵野夫人」を構想したのは、終戦のあと、富永さんの家に仮寓していたときであったとか。
昭和十年の八月、陸軍部内の主導権争いから相沢中佐に刺された“悲劇の軍部局長”永田鉄山中将の遺族が、事件のあと、ひっそりと小金井村に移ってきた。長男は幼くて小金井小学校に入学したが、小児麻痺で左右の自由がきかなかった。すっかり同情した銀さんは雨や雪の日の送り迎えをかって出て、どうやらひとり歩きができるまで、二年間もやり通した。その長男は新聞記事のHの現在で二十九才に成人し、N区役所に勤めているが、「小金井駅を通るたびに、あの人を思い出すのですが……」と、しみじみと語ったとか。小倉の無法松は正直なあばれん坊であったが、小金井の銀さんは仏のように心のやさしいもの静かな人であったという。
昭和十三年に、銀さんは東京府知事から善行を表彰された。このときの紋つき羽織に袴をつけたいでたちは、この人の一世一代の晴れ姿であった。が、賞状をもらって、お祝いの言葉をかけられて、ただ恐縮するばかりだったという。
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