1963(昭和38)年3月20日(水) 「くぐなり」への手紙3
〔その三〕
この冬は、北半球のほとんど全域をおそったというきびしい寒波に見舞われましたが、三陸新報によると、卒業式は三月二十日の十時からとか、ひとしく中学生になる卒業生たちは、将来への夢をひときは多彩に、それぞれの胸に秘めているでしょう。焦点の距離は必ずしも一様ではなく、何らかの理由で何ほどかなの不満や満ち足りない気持の幾人かが、たとえばあるにしても、何しろ無限の可能性をもつ人たちのことですから……。
卒業といえば、第45号に載った六年生の狩野由美子さんの「くぐなり浜の砂の研究」は、大島のもろもろの浜の砂の色や質を比較し、歌い砂の視点をしぼって考案を加えたりっぱな記録でした。その他にもいろいろな観察や試みが多くの児童によってなされたでしょうが、身近な物や事について系統的に具案的に調べるのはたいへんよいことで、そういう実践や経験をもつだけでも意義が大きいのに、それが習慣にまで身についたら、どんなに喜ばしいことでしょう。
それは先生の指導や啓発にまつばかりでなく、家庭でも適切な助言や励ましを与えることによって、尊い学習活動に一層の輝きが望まれましょう。いつか三陸紙に掲載された「フナムシの研究」もすぐれたものだと思いました。
戒めねばならないのは結果や完成度にとらわれることで、よしんば出来あがりが思わしくなかったり未完成であったりしても、重要はその過程にあるのだから、あやまりないよう、だいじな芽生えをいとおしみ育てていきたいものです。
身近なことといえば、第五十号の「部落訪問記」に長崎が登場しました。(文中)“あの有名な…”には恐れいりました)が、子供のころ朝に夕に眺め、一度か二度は浜の砂を踏んだこともある小舞見島に姫松というのがあることを、私はちっとも知りませんでした。もっとも、海賊うんぬんのことは、先年、三陸紙で見て驚き、昭和三十三年の九月に当時の校長であった小山正平先生が公刊された[黒潮の果]には小舞見島には外人女の墓と伝えられるものがあり、唐島とともに密貿易の場であったといわれ、またそれらの島に上陸すると毒蛇にかまれるとか病気になるとかいって上陸を拒んだという伝説の残っていることも、密貿易の発覚を防止した一策であると思われる。こうした大島・唐桑の沿岸旧家には、当時の交易品と伝えられる古い陶磁器等を沢山所有している家もあるとあったので、もっと詳しいことを知りたいと思っていましたが、海賊船が乗せてきた女人の死体を埋めた墓標に松の木を植えたなど、ロマンチックともいえるそんな伝説は、まったくの初耳でした。いったい、誰がこんな話を知っていたのでしょう。そして大島のどの家に。そんな珍しい品が保存されているのでしょう。
ともかく、要害のスス口とか、崎浜の数かずの神社とか、あるいは大島の現状だとか、どんなに多くのものを私は御紙から学んだか知れません。
今日の大島には、よそからお嫁にきたり移って来られたかたも多いし、これからもふえていくでしょう。その土地について知ることによって親しみも増し、それが愛情にまで深まっていくことは、誰もが知ってのとおりです。大島に生まれ大島に育ちながら、灯台もと暗しという、私のようなうかつ者いることですから、こういうことの発掘や展示や、紙面のゆるす範囲での詳しい紹介を、さまざまの角度から続けて欲しいものです。
それにしても、多くの人の目や耳というものは実にいろいろの事を見たり聞いたりしているもので、たとえ一人が一つずつでも、その集積が一巻をなすほどの貴重な文献や資料になることは、第三八号で大島小学校の草創時代からの教育や世相の移り変わりを語った古老たちのことばの採録によって、その一端が示されましたが、こういう語部たち(かたりべ“上古、旧辞・伝統を語ることを職とした部族”と[辞苑]にはありますが)に今のうちに何かと聴いておくことがどんなに大切かを、しみじみと感じたことでした。
創立九十周年記念事業のひとつに、この種の座談会が計画されたとのことですが、私もまたその成果に期待を寄せ、方言まるだしの片言隻辞にも耳をそばだてているひとりです。
―一九六三・二・十三―
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