1963(昭和38)年3月20日(水) 「くぐなり」への手紙4
〔その四〕
第五三号によると、御紙が読売新聞の地方版にとりあげられ、柴田郡の人から参考にとの求めがあったとのこと、さもあるべしと思い、ここに至るまでの皆さんの労苦がしのばれました。
小山正平先生時代からとのことですが、五十号とか八十号とかいう場合があるにしても、月刊でのそれは異例のことではないでしょうか。そういった規約や申し合わせはあっても、実際には学期末や学年末の年二三回程度が一般で、だからといって、質量ともにそれだけ豊かなものになるとは限らないし、それがどれだけ読まれるかという点にも疑念がもたれます。
が、よそうはどうあれ、いついつまでも月刊を続けてほしいし、いろいろと波はあっても、それが伝統にまでなっていくだろうことを、私は深く信じています。
それにしても月刊はたいへんな仕事で、経費の点もありましょうが、第五一号で部落編集委員たちが“悩みと意見”をもらしていたように、問題はむしろ原稿についてでしょう。「何でもよいから」とお願いしても「この通りとても忙しくて」といわれれば「あえて強いるわけには行か」ないし、原稿なしでは「編集会議に行くのもいやになる」はずで、せめて「年に一人一つの原稿を」というせつない気持にもなりましょう。それが自責に姿を変えて、「何をやって来たのかを反省する時、つくづく自分がなさけなく思えて来る」というつきつめたものに追いやられることもありましょう。
求められる側になれば「気軽に」といわれても「仕事が忙しいばかりでなく、文章にまとめるとなると容易ではなく」おっくうなことにちがいありませんが、「これを手に取り読む楽しさは、ほかの新聞雑誌ではとても味わうことはできない」のだし、「お話すればいろいろと良い御意見やお考えを持っておられるのですから、これからは思っておられることや感じられたことをちょっと書きとめておいて頂」きたいし、「出漁中のお父さん達からのお便りもぜひ欲しい」と私も切に望んでやみません。
形式は、簡潔な日記体とか、近所同士の対話の形とか、知人や兄弟への手紙の形とか、いろいろあるでしょうし、メモ風のほんの数行のものがあっておもしろいこともありましょう。とにかく、「美文名文をもって綴ろう」とせず、思い思いの方法でされたらよろしいし、詩や短歌や俳句なども見たいものです。中沢静子さんの文によると、要害部落の人から「常に人の集まる所での話を、誰さんはカクカク、彼さんはコレコレと纏めてきて記事にするのがよいではないか」との意見があったとのことですが、それでは「編集委員は常に紙と筆を座右にしていなければならないということになり、本職の記者を呈」さないまでも、やさしいようで案外むずかしいとも思われますが、こういう記事もあってよいし、一人でも多くの声をきくためにも、この方式をとりいれたらどうでしょうか。ひとつテープレコーダーを奮発して座談会の記事でも載せたら、紙面にいっそうバラエティが加わることでしょう。
つぎに「まだ発行にならないのとむさぼり読んだ“くぐなり”もあと一号でお別れ名残惜しい思いがします。」という声が第五四号にありましたが、すべての人に学校の様子を知ってもらう上からも、環境を重視する教育のたてまえからしても、通学生のあるなしにかかわらず、御紙を全戸に配布したらどんなものでしょうか。大島で唯一の報道機関としての役割を果たしているともいえる“くぐなり”を私は高く評価しています。
春です。新しい一年生たちは入学を前に、歓びと希望に胸をふくらましていることでしょう。 ―一九六三・四・三―
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