1956(昭和31)年11月30日(金) 九年ぶりの旅1
十月二十二日の暁であった。私は床に入って、肩こりを休めていた。
八時過ぎであったろうか。誰かの声が玄関ーといっても、たった一坪しかないところへ本棚がのさばり出ているといったみじめさだがーで、した。大島中学校の小松校長であった。長野市で催された全国中学校長会議とやらへ出席しての帰りを、上野からくるまを駆って来たという。
おどろいた。うれしかった。九月十日の夕景に、修学旅行の生徒をひきいての帰りを上野駅に見送り、校歌の制作のことなどで何回かの通信に接してはいたが、この訪問は思いもかけなかった。突然にやって来た喜びであった。布団をたたんで、二、三の品がととのえば、そこはたちまち、ささやかな酒の座であった。
とはいっても、四年にもおよんだ療養生活で、わしは酒から遠ざかっていた。ほんのおあいてしかできないのが申しわけなくもあり歯がゆくもあった。
小学校のころ、かれは二年ほど上級であった。がっしりとした体躯で、くちびるにはいつも微笑をふくんでいた。それがそのまま成長したという感じは、天真爛漫であった。旅のつかれで、酒のまわりも遠いらしかった。
それが、にわかにいずまいを直して、膝に手をおいた。頭をたれた。十一月六日に開かれる産業教育研究成果発表会への出席をかねて、校歌制作のためにも大島へ帰ってきてくれないかという。このいんぎんをきわめた招待にはおそれいった。
郷里へ帰ってみたい気持は、以前から、わたしにもあった。訪ねたい人や、調べたいことや、気仙沼をめぐる地域のうつり変わりを知りたい思いや、それは一つの課題でさえもあった。校歌のためには当然そうあるべきだと一応も二応も考え、これこそよいきっかけだと、家のものとも話したりしていた。が、治ったとはいっても、健康になお自信がもてなかった。長い時間にわたる汽車の旅への不安もあった。ためらっていた。
が、わたしは意を決した。帰郷を約束した。きわめて自然ななりゆきであった。
「きっと来てくださいよ。」
小松氏は念を押した。家のものもそばにいて、笑いながらうなずいた。
話題は善光寺に詣でたくだりになり“牛にひかれて善光寺まいり”という諺の由良におよんだ。家のものは、父親が長野市に近い川中島?生まれのせいもあって、そのことを耳にはさんでいた。二人で、しばし語り合っていた。
わたしは、はるばるとたずさえてきた浅間山の溶岩をもちあげては、重量を考え、かつて汽車の窓から見た山の姿を思い浮かべなどしていた。水車か何かの朽ちた板に“簡素”と刻まれた島崎藤村の文字は、白く塗られて鮮やかであった。
夜はふけていた。床に入った小松氏は、ものしずかな旅人であった。朝までぐっすりと眠ったようだ。
筆者紹介
水上不二は気仙沼大島出身、童話、詩人として中央で活躍している唯一の人。小学館発行の児童図書に幾多の作品を発表している。最近ではアンデルセンの童話を翻訳していた。 (つづく)
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