1956(昭和31)年12月1日(土) 九年ぶりの旅2,3
あくる二十三日は、東京駅に接続する鉄道会社の六階に宮城県の事務所を訪ね、ついで文部省へくるまを走らせた。十一月六日の会に講師派遣のことを確かめるためであった。ところが、それについての書類がまだ文部省に届いていないという。
帰りに仙台に寄って県の教育委員会に急いで手続を完了するように努めるから、ぜひ希望を容れてくれるよう、小松氏は懇請した。わたしもそばから口を添えた。初等中等教育局蔵業課長補佐という安岡氏の答えは多分に好意的であった。書類の到着が待たれた。
雨になった。水道橋駅の近くで知人が営んでいる小さい店で盃をあげていると、韓国居留団の数名が入ってきた。合流して、名刺交わしなどして、韓国のうたを聴いた。どれも哀愁をおびているのには考えさせるものがあったが、特有のことばとリズムは美しかった。エジプトやハンガリアの問題にふれて、日本の態度を憤る声もあった。
庭から拾って手荷物の箱にいれた多摩川の三つの石ころは、ひと足先きに気仙沼へ急いでいるであろう。十時何分かの汽車で、小松氏は上野駅をたっていた。
「仙台での話が順調であってくれればいいが…。」
校長というものの苦労が思われた。
3
十一月三日は、朝から晴れて暖かかった。色づいた木立や柿の実を見て、忘れていた“むさし野”を今さらのように思いだすのもこのころだ。黒い火山灰の土に野菜や麦のみどりがいのちを思わせ青い空にはちぎれ雲が白く光っていたが、文化の日の旗はいたってまばらであった。何の催しか、花火の音がしていた。子どもたちは六人が六人とも勤めも学校も休みで、家でしたいことをしていた。外へ出たのもあるらしい。ひっそりと菊が咲いている。
「牛にひかれて善光寺まいりだな。」
午後三時をすぎて、家を出た。九年ぶりの旅であった。一物も身につけないつもりでも、手廻りの品をあれやこれやとととのえると、ビニールの鞄と手提げ袋を持たないわけにはいかなかった。家のものが見送ってきた。新宿で電車をおりて、しばらく街を歩いた。いつもながら、通りきれないような人であった。店をのぞいたり、百貨店のエスカレーターに乗ったりした。
上野は光の海であった。が、東京の空はいたましかった。ネオンサインというものにいためつけられていた。なまなましい極彩色の明滅が、同じことをこりずまたくりかえしていた。見ていると、ばかばかしくなった。ピエロの幻像が口をあいて笑った。ー新しい機械文明ははなはだ結構だが、もう少し何とかならないものか。
十時五十分発の準急行は、常磐線廻りの青森行であった。駅の前の店で二、三の買い物をし、ちゃちな食堂でかんたんな夕食をとった。電車で一時間以上もかかるので、家のものには帰ってもらった。もう、一人であった。待合室で、若者と娘たちのざれあいをながめていた。肩がひどく張ってきた。
寝台券もいいが、いちばん安い上の段であった。やっとの思いで梯子から寝台にうつった。ところが、頭がつかえて、どうにも身動きができない。何とか横になろうとしたら、首がよじれて息がとまりそうになった。あわてた。(思いきり背中をまるめて前にのめった。)ーろくすっぽ金もないくせに、なまじ寝台車に乗るからこんな目にもあうのだ。
それにしても、からだが弱いということは、何かにつけて人生の大きなハンディキャップにはちがいない。
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