1956(昭和31)年12月6日(木) 九年ぶりの旅5
家について驚いたのは台所の土間がほとんど板敷に変り、子どものころ未明から十三うすも麦をつかされた石うすが姿を消していることであった。“かるうす”と呼んでいたが、あれをどう処理したかをきかずに帰ってしまった。
フランスのアルワオンヌ・ドーデエは“コルニーユ親方の秘密”という作品で機械化された工場に仕事をうばわれていく粉ひきの風車を必死に守りつづける老人の心情を描いているが、これと似たような気持に駆りたてられる昔かたぎも、世間にまんざらないことではあるまい。
科学はあらゆるものを変えていく。新しいものを限りなく送りだしていく。パスその他の薬が発見されて、結核による死亡がいちぢるしく減り、日本人の寿命も十年ばかり延びたという。ついでに中気も何とかしてもらえないものか。ー生家には六年も寝たきりの病人がいた。
夕景になった。兄や叔父や高井のおいと祝いのサカズキをあげようとしていると、小松校長と小学校の村上教頭が一升びんをさげて来た。明海荘の主人が魚をもってきてくれた。「海が荒れて、何もなくて…」と海の荒れたのが自分のせいのようにいいわけをしている。六日の会の昼休みに演ずる踊りのことで、小松氏に相談に来た娘たちの一人は、三女のりょう子のことをたずねた。そ開した家族が、一時大島にいたころ、小学校で同級だったという。
静かな晩であった。海流の影響であろう、空気の感触がやわらかくて、全身が暖かった。じっとしていると、岩に寄せる波の音がまくらにひびいてきた。それは空気を伝わってくるというよりも、地軸にしみとおるような悠久感であった。永遠につづくような単純な反復は、無限を思わせるものであった。いつまでも眠れなかった。この波の音を聞いただけでも大島に帰ったかいがあった。
5
明けがた近くに眠りにおちたらしく、その間に雨が降っていったらしい。五日の朝へ起き出てみると、庭の土がじくじくとうるんで、雨をふくんだ雲が南東へしずかに移動していた。
祖母の生家を訪ねた。八十九才の老人がなくなって、あさって初七日だという。この家から出た小山よねさんが、膝に孫を愛撫していた。長男は大島中学校の教師をしているという。私たちが小さいころ、この“およねおばさん”は東京で働いていた。聖書と讃美歌集をもらって目をみはったのは高等小学校の時分でもあったろうか。
餅をすすめられたが、どうにも触手が働かない。あんころを一つてのひらにのせて、やっと胃袋へ送りこんだ。
父の生家では麦蒔きにいそがしく、手伝いの人たちが昼飯どきであった。おばあさんはもうなくなられたという。九十をこえていたのではあるまいか。
―七十にならないで死んでいった母のことが、ふと思われた。
兄の長女の稔子も嫁にきて十数年になるだろう。四人とかの子どもの母は、きょうも胸に乳飲み子を抱いていた。
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