1956(昭和31)年12月7日(金) 九年ぶりの旅5
中学校は明日の準備に、教師も生徒もかいがいしく働いていた。小学校の小山校長がきて、自分の学校のことのように何かと手伝っていた。美しいと思った。
外部との折衝にあたっていたのであろう。小松校長がやっと姿を現した。文部省から講師がたしかに来るという。ほっとした。案内されて校舎を見てまわった。二階から見た風景は絶品であった。太平洋が青くもりあがって、点在する島や岩のたたずまいを、白い波が律動していた。小舞見島が海賊の島だったというニュースは、あれからどうなったか。金華山が見えた。まことに海にかこまれた中学校であった。
小学校と中学校から、生徒にあいさつを求められた。こんなことになるのではないかとかねてから思わないでもなかったが、そのときは何もかも忘れていた。何の準備もなかったし、晴れがましくもあった。が、児童や生徒たちはみんなわたしの知人や友人の子どもや孫たちであった。大島という地域社会で、みんながきょうだいであった。そしてここは、わたしの母校であった。ここであいさつすることは、むしろ義務でさえあった。大島への親近感がうちに激しく湧きあがってきた。
はじめに小学校の児童が講堂―屋内体操場と呼んでいるらしい―に集められた。六百名ばかりもいたろうか。小山校長がわたしを紹介した。そのうたい文句がピカール博士兄弟のことを書いたわたしの少年詩“ふたご”が、ある国語教科書の五年生用にのっていることであったのには、身のちぢまる思いがした。もっともそれよりほかに、ほめようがあるまいからしかたもないし、また、それを機会に、子どもたちに希望とはげましを与えようという善意の前には何と抗弁のしようもなかった。ついで“ふたご”の発見者であるらしい村上百治郎教諭がよい声で朗読したが、この方がへたなわたしの十分近いあいさつよりも効果的であったろう。
それがすむと、同じ場所に中学生たちが並ばされた。
校歌のこと以来、この生徒たちは、わたしのことを何回か聞かされているだろう。三百名をこえる若いひとみがまぶしかった。
今さら風変わりな話をして幼い世代のどぎもをぬくつもりもないしいくら風来坊でも、教師の領域に触れることはしたくなかった。で、できるだけ即物的具体的にと心がけたが、わたしのあいさつは、どちらの場合もいささか抽象的であったらしい。角度を変えたつもりだが、主題は“世界につながるわたしたち”という共通したものなったようだ。わたしはかれらのもつ限りない可能性に期待したかった。郷土にほこりをもち、将来に希望と勇気を与えたかった。みんなわたしの妹や弟たちであった。
わたしが立っているところ、
ここは世界のはじっこです。
わたしが立っているところ、
ここは世界のまんなかです。
わたしが立っているところ、
ここは世界のはじまりです。
わたしが立っているところ、
だれでも、だれでも、そうなんです。
が、何をどう受けとったにせよこの若い魂たちは世界に生きていくであろうし、宇宙旅行にものりだすであろう。彼らは世界の一人びとりにちがいないし大島は世界の大島なのだから…。
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