1956(昭和31)年12月8日(土) 九年ぶりの旅5
ともあれ、東京あたりでもちょっと見られないようなよい講堂であった。小学校様相も一変してむかしの面影はなかった。ていねいに見てまわる時間のないのが心残りであった。
小松校長と連れだって、もとの村役場を訪ねた。気仙沼市役所大島支所と標札も新しかった。菊田支所長は噂にばかり聞いて面識のない人であったが、会えば豊かな抱擁性で精倬なひとみが鋭かった。菊田公民館長は引揚者とかで、ほほに外地の年輪が感じられた。旧知の白幡PTA会長ははつらつとしていたし、小山哲治郎君は温和の人であった。中学校の校歌に話題は終始した。
電話にうながされて、菊田支所長のお宅へうかがった。夫人の美子さんは小学校の同級生で、ごぶさたのあいさつは、いましがた中学校で交わしたばかりであった。何やかにやともてなしてくれたが、どうにもならない。手製だというさくらの花のお茶と何かのジャムが味覚に楽しかった。大向の小野寺家の落日について、この人から詳しく知りたいと思った。
小学校では座談会が待っていた。村上教頭の司会で一時間くらいも過ごしたろうか。話は作文から詩のことに移っていったが、ここでも現代詩のむずかしさがもちだされた。さきに脳溢血でたおれたという岩井信亮氏の健在はうれしかった。
午前にもちょっとのぞいて通ったが、兄の家の井戸は奇蹟の思いがした。うしろに山もない高台で三十尺くらいで水が湧くとは考えもつかないことであった。わたしのいる小金井あたりでも、台地では四十尺から五十尺も掘らないと水脈に行きあたらないという。兄夫婦はつぎつぎと生まれた男ばかり四人の孫たちにとりまかれていた。父の八尺は何を考えているか。わたしは、葡萄酒にウイスキーを加えて、何ばいかグラスを傾け、迎えに来ていた弟と提灯のあかりをたよりに生家にもどった。聞けば、水上善吉さんと龍太郎さんが訪ねてきたが、待ってもおそいので、疲労をおもんばかって帰っていったという。
感動にみちた一日であった。 (おわり)
(腰椎捻ざ(ぎっくり腰?)で執筆を禁じられ、それにぢまで悪くして原稿がおくれました。もう大丈夫だから、今度こそ追いつけ送ります。あと十数枚くらいですみましょう。)
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