1956(昭和31)年12月13日(木) 九年ぶりの旅6
六日の中学校は、研究会にかかわる人びとが肩を触れあっていた。職員室の椅子には小山良治先生がおられた。廊下で村上栄四郎先生を発見し、ついで小松庄吉先生にお目にかかった。旧知のだれかれのなかには歌の道を歩いている白幡精一さんもいた。
出迎えの巡航船が着いたのだろう。海を渡ってきた人びとのなかに、津谷中学校の近藤校長がいた。大谷中学校の佐藤校長がいた。月立小学校の小野寺校長や白山小学校の熊谷校長がいた。やがて唐桑中学校の小山校長の姿が見えた。ゆうべは生家に泊まったという。控室で文部省から来てくれた鈴木寿雄氏に謝意を表した。
九時二十分から五十分間は一般授業で、二時間目は桜井さと子、木村仁一、白幡弘之、山田とくよと、四人の教諭による職業家庭科の特定授業であった。海の光が飛びこんでくる教室で、教師も生徒も真剣であった。
幻灯やスライドが映写され、砂時計や天球儀が機能を示した。英語の学習に、音声がたちまちテープレコーダーに現われた。ちりとりの工作にいそしむ一群に対比して、電気の利用について学習するテスターの感度があった。数学科は図形を追求し、社会科は民主主義政治を単元にしていた。ミシンの律動が調理用のエプロンに苦心しているとき、ほかの教室では“大豆と麦”の生産と科学について考えていた。
しょせん、わたしは傍観者にすぎなかったらしい。教室の窓から窓へ風のようにのぞいてまわった。全体の動きが知りたかった。同じ時間に、多種多様の学習と指導が深い愛情と信頼のなかで行われているという事実は、思えばありがたいことであった。わたしは一種の感慨にひたりながら、二年生の“魚の加工”に腰をおちつけた。実習の成果だというにしんのみりん干しがビニール袋につめられていった。
会議は講堂に集まった。小学校長が学校経営について語った。白幡賢治教頭は研究の経過を、白幡弘之教諭は“職業家庭科カリキュラムの構成”を、小山亀春教諭は“産業教育における本校の学習指導の立場”について発表した。
昼食の席で、気仙沼中学校の畠山校長や鹿折中学校の及川校長と雑談に花を咲かせていると、大島小学校の小山校長がわたしの紹介をはじめた。立たざるを得なかった。かじりかけたりんごを口にもぐもぐさせながら立ちあがった。ひとくさりわたしの“業績”が放送された。穴があれば入りたかった。が、それそれもならなかった。どっと溢れてくるものをかいきょうにまぎらして、やれやれと腰をおろした。すると、誰かが近づいてきた。気仙沼水産高等学校の中村校長であった。手に受けた名刺をながめて、わたしに沈静な時間があった。
ふたたび講堂の人になった。気仙沼公民館長の小川先生が、すぐそばにおられた。おどろいて声をかけた。むこうには、村上章一氏が無言で腕ぐみをしていた。
七ー八人の娘たちが“大島音頭”と“大漁うたいこみ”を踊った。誰の振付か、直線的な表現のなかに素朴な詩情が感受された。単純化されて清潔であった。ちょっと気になったのは、扮装がへんなはなやかで、佐渡おけさなどの類型が感じられることであった。やっぱり独自のものが欲しい。背景のカツオやタコはリアルでよいようなものだが、もう少し文学的な造形が望ましかった。なければしかたもないが、緑色の幕だけでもかなりの効果をあげられはしないか。
ともあれ、こんな踊りが大島で見られようとは夢にも思わなかった。娘たちの身ぶり手ぶりが涙の出るほどうれしかった。わたしは力いっぱいの拍手を送った。
コメント