三陸新報〈学芸〉九年ぶりの旅7

1956(昭和31)年12月19日(水) 九年ぶりの旅7

 いいようのない悔いのようなものが霧のようにふきあげてくる。感動のあとできまっておこる心象風景だ。何がなし、空虚でさびしい。
 でも、きのうの雨でコンクリートの天水桶があふれている七日の朝だ。高井の叔母が訪ねてきた。三年ばかり前に病気になったときいたが、思っていたより元気そうであった。家族のことでも話してゆっくりしたかった。が、わたしは津谷中学校へ行かねばならなかった。きのう、近藤校長と約束したのだ。
 船着き場に、小山唐桑中学校長が待っていた。まもなく巡航船が出た。気仙沼に着くと魚のにおいのただようなかをバスの発着所へ行った。バスの発達は、ここでも目ざましかった。唐桑や梶ヶ浦や大船渡方面にも路線が開かれ、仙台への急行も日に何回か出るという。いずれは資本家の仕事だろうが、それによって人びとに職が得られ、多くの人が利便を受けることなので、それ自体は喜ばしいことにちがいなかった。新しい気仙沼線の鉄路が窓から見えがくれた南へ延びていた。開通も遠いことではあるまい。一時間二十分ほどで、バスは津谷に着いた。
 町並は以前とあまり変わりがなかった。道もいたんでいた。もとは御嶽村と呼んだはずだが、去年あたり、大谷村と小泉村が合併して本吉町になったとか。理論は別として、村という名が消えていくことはさびしい。
 平和な里であった。小山氏がいうように”静的“であった。水田のなかを歩いていくと、津谷川が音を立てて流れていた。
 中学校はかなりの高台にあった。小山氏の長男は、そこに教師をしているという。坂道をゆっくり登っていった。ときどき立ち止まって呼吸をととのえた。南に立束山がそびえ、東には丘陵が起伏していた。この近くにキリシタンの遺跡があることを新聞で知ったのは五ー六年前であった。
 三年生の二百名ばかりを前に話をすることになった。紹介は毎度のことで、もう観念していたが、苦しいことには変わりがなかった。詩の話をはじめたのが、詩のない詩のことになり、詩のない話に終わった。四十分ばかりもしゃべったらしい。
 この町の梶原教育長はどうしても会わなければならない人だが、何としても時間がゆるさなかった。肩こりもひどかった。帰りのバスは津谷が始発で、客が少なかった。金を掘っているという大谷鉱山の入口を過ぎるころまで、わたしは座席に寝そべって、ぶざまな姿を人びとの目にさらしていた。
 少年のころ、わたしは近藤家に一週間ばかりお世話になったことがある。どんな事情からであったか、はっきりと思いだせないが、東京へとびだしたり、また大島へ帰ったり、一人で悩んでいる時分だから、大正九年あたりではないかと思う。尊父はすでに昇天して、大きな写真が額に飾られていたが、母刀自は健在で、近藤氏の初孫である曽孫を、老いの膝に抱いておられました。夫人も令息たちやお嫁さんも初めての人たちであった。

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タイトル新聞号数新聞掲載日
九年ぶりの旅1復刊第3156号31.11.30(金)
九年ぶりの旅2復刊第3157号31.12. 1(土)
九年ぶりの旅4復刊第3158号31.12. 2(日)
九年ぶりの旅5復刊第3162号31.12. 6(木)
九年ぶりの旅5-2復刊第3163号31.12. 7(金)
九年ぶりの旅5-3復刊第3164号31.12. 8(土)
九年ぶりの旅6復刊第3169号31.12.13(木)
九年ぶりの旅6-2復刊第3170号31.12.14(金)
九年ぶりの旅7復刊第3175号31.12.19(水)
九年ぶりの旅7-2復刊第3176号31.12.20(木)
九年ぶりの旅8復刊第3181号31.12.25(火)
九年ぶりの旅8-2復刊第3182号31.12.26(水)
九年ぶりの旅9復刊第3183号31.12.27(木)

この記事を書いた人

詩と童話の世界に魅了され、水上不二の作品をテーマにしたブログを運営しています。子どもの頃に読んだ彼の童話が心に深く刻まれ、それ以来、彼の詩や物語に込められたメッセージを探求し続けています。

文学を学ぶために大学で日本文学を専攻し、卒業後は国語教師として勤務。その後、自分自身の言葉で水上不二の世界を語りたいという思いから、ブログを立ち上げました。

趣味は読書、美術館巡り、そして詩の朗読。特に、水上不二の詩を声に出して読むと、彼の言葉が心に染み渡る瞬間があり、それが私の人生の喜びの一つです。

このブログを通して、水上不二の作品を通じた感動や発見を皆さんと分かち合い、詩と童話の世界を広げていけたらと願っています。

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