1956(昭和31)年12月25日(火) 九年ぶりの旅8
いよいよ八日になった。近藤家を辞して、小山氏と道を急いだ。鉄路をまたぐとき、むこうでは駅舎の建造が朝からいそがしそうであった。どこかに出張しているという菊田隆一氏会う由もなかった。
気仙沼でバスを降りた。小山氏は唐桑行きの船に乗った。わたしの大島行きは、一時間近くも待たねばならなかった。このとき、見知らない青年に声をかけられた。それが生家のすぐ隣の小山富太郎君であろうとは!市役所に勤めていて、そ開していたころの二女の研子と大島小学校で机を並べていたことがあるという。三陸新報社へ案内してもらった。浅倉社長は不在であった。ついでに公民館へ行った。小川館長は出勤の途上であった。後ろから声をかけた。公民館は菊の大会で”先代秋”の菊人形は「腹がへってもひもじゅうない」場面ででもあったろうか。
小川館長は、鹿折の浦島分教場に勤めていたころの本校の主席訓導であり、名足小学校時代の小川校長であった。家族がそ開していたころの心の支柱であった。一ばん目のお嬢さんは他界されて、永遠に幼い日の美枝子さんさんであったが、二ばん目の美嘉子先生は、長女のれい子が転校してきた高等女学校に勤めておられた。この女学校の坂道をくだって往来を横ぎると、とっつきが家族のいた谷井さんの留守宅で、一軒おいて隣が先生のお宅であった。
「小川先生のところへぜひ寄ってきてくださいよ」
家のものにも再三いわれてきたが、わたしは手みやげの用意も忘れていた。
そのころは、いつも着ぶくれて病弱な方であったが外から帰ってこられた奥さんは、見違えるような元気さであった。「生長の家」の向日性が幸いしているらしい。おもての黒板に書かれたその日のことばを、小学生のように黙読させられた。
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