1956(昭和31)年12月26日(水) 九年ぶりの旅8-2
大島に帰ると、高井の叔母の家を訪ねてそそくさと生家にもどった。知りあいや近所じゅうからの心づくしの贈り物がとどいてた。何とお礼をいってよいかわからない。ごく近くの数軒をあいさつして回った。
そのとき、ふと見た長崎の海は美しかった。ノリの棚やカキのいかだが黒く並んで、水面に生気をただよわしていた。もとはただの海ばかりであったものが、何と生気にかがやいていたことか。限りない人間のいとなみがありがたかった。
兄や叔父たちと別れの盃を交わして、一時をすぎて生家を出た。途中、弟とお寺によって先祖を拝み両親の墓から小石を拾ってポケットに入れた。叔父と数人が気仙沼まで見送ってくれた。
が、まだ日程に残りがあった。急な坂道を登って、図書館に菅野館長を訪ねた。初めての青顔氏はたちまち十年の旧知であった。三陸新報の石森総務がいて、若い佐々木記者を呼んだ。写真が写された。菅野氏は詩を八つばかり集めたわたしの青年のころのパンフレットを保存していた。うすっぺらな”私の内在”は、いかにも困窮を極めていた。
すぐ前の気仙沼小学校は、かつて、二女の研子が六年生に、三女のれい子が三年生に、四女のきょう子が一年生に、戦争の日をお世話になったところだが、あいさつに行く時間がなかった。図書館もそこそこにして、三陸新報社へ四人で日ぐれの坂道をくだっていった。
浅倉社長がいた。千葉記者がはいってきた。佐々木記者が校歌や子どもの遊びについてただした。わたしは口早に答えた。ついこのあいだ講談社からだしたアラビアンナイトの再話のなかから”アリコジアのさいばん”を例によって子どもの遊びは社会の反映であることを語った。菅野氏と石森氏は盃をあげながら、何かしきりに話し合っていた。
八日の夕刊が刷りあがって、私の帰郷のことがのっていた。どこで誰に聞いたものか”当代随一の童話詩人”にまつりあげられたり、五十二才が五十才に若返らされたり、小学館に勤務させられたりしていた。
もう時間は迫っていた。浅倉社長にくるまで送られて、五時三十三分発とかの上りの汽車にすべりこんだ。
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