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大島小学校PTA新聞くぐなり 「くぐなり」への手紙4
1963(昭和38)年3月20日(水) 「くぐなり」への手紙4 〔その四〕 第五三号によると、御紙が読売新聞の地方版にとりあげられ、柴田郡の人から参考にとの求めがあったとのこと、さもあるべしと思い、ここに至るまでの皆さんの労苦がしのばれました。 小山... -
大島小学校PTA新聞くぐなり 「くぐなり」への手紙3
1963(昭和38)年3月20日(水) 「くぐなり」への手紙3 〔その三〕 この冬は、北半球のほとんど全域をおそったというきびしい寒波に見舞われましたが、三陸新報によると、卒業式は三月二十日の十時からとか、ひとしく中学生になる卒業生たちは、将来への夢を... -
大島小学校PTA新聞くぐなり 「くぐなり」への手紙2
1962(昭和37)年10月5日(金) 「くぐなり」への手紙2 〔その二〕 私が少しばかり図書を生徒たちに届けたことが「くぐなり」の四五号と四六号に書かれ、「水上文庫」を設ける予定だとありました。このことでは校長先生からもお便りを頂きましたが、文庫の名... -
大島小学校PTA新聞くぐなり 「くぐなり」への手紙1
1962(昭和37)年8月7日(火) 「くぐなり」への手紙1 〔その一〕 「くぐなり」の未着分をお願いしましたら、さっそく送って頂き、うれしく拝見しているところへ、またも同じバックナンバーが届けられました。これは貴重な資料となるものなので、重複する分... -
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの8
1963(昭和38)年7月15日(水) 唐桑につながるもの【補遣】 ~生家の火事と唐桑のイカ釣り船~ もし焼けなかったら、たとえあばらやであっても、あっさりと”生家“と呼べたであろう。その家が烏有に帰した前後の事情について、郷里の叔父にたずねたところ、... -
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの7
1963(昭和38)年6月5日(水) 唐桑につながるもの7 ~想いは尽きない地縁~ 昨年の春、大島小学校を勇退した村上初助氏が発令を目前にして病いにたおれ、仙台の病院に入院したという報知に驚かされた。何たることかと、一瞬、目のくらむような衝撃に思わず... -
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの6
1963(昭和38)年5月5日(日) 唐桑につながるもの6 ~図らず母校で講演~ そのとき、いっしょにいて声をかけた女性は誰だったろう。浦島時代の生徒にはちがいないが、ついききそびれてしまった。あとで小梨先生に、誰であったかとはがきでたずねたが、返事... -
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの5
1963(昭和38)年4月25日(木) 唐桑につながるもの5 ~懐かしむ唐桑行脚~ 時は惜しみなく流れて、昭和三十二年になった。私は大島中学校の校歌を書き、芥川也寸志氏が作曲された。このとき、小松勝吉校長から送られた資料によって、鹿折と浦島の校歌を巽聖... -
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの4
1963(昭和38)年4月15日(月) 唐桑につながるもの4 ~消えやらぬ文学熱~ 昭和十一年も六月になった。いつまでもこうしていてはいられなかった。何とかせねばならなかった。かねて語り合っていた准教員の試験を受けに、私より二年若い近所の村上初助君と... -
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの3
1963(昭和38)年4月5日(水) 唐桑につながるもの3 ~水産学校時代~ 大正七年の四月、みんなより十日くらいおくれて、私は水産学校に入学した。授業料は三十銭で、浦の浜と気仙沼の間を往復する船賃も、月額が同じ三十銭であった。 もともと私は水産学校...