唐桑につながるもの– tag –
1963(昭和38)年3月15日から「からくわ民友新聞」に掲載された寄稿文である。
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地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの8
1963(昭和38)年7月15日(水) 唐桑につながるもの【補遣】 ~生家の火事と唐桑のイカ釣り船~ もし焼けなかったら、たとえあばらやであっても、あっさりと”生家“と呼べたであろう。その家が烏有に帰した前後の事情について、郷里の叔父にたずねたところ、... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの7
1963(昭和38)年6月5日(水) 唐桑につながるもの7 ~想いは尽きない地縁~ 昨年の春、大島小学校を勇退した村上初助氏が発令を目前にして病いにたおれ、仙台の病院に入院したという報知に驚かされた。何たることかと、一瞬、目のくらむような衝撃に思わず... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの6
1963(昭和38)年5月5日(日) 唐桑につながるもの6 ~図らず母校で講演~ そのとき、いっしょにいて声をかけた女性は誰だったろう。浦島時代の生徒にはちがいないが、ついききそびれてしまった。あとで小梨先生に、誰であったかとはがきでたずねたが、返事... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの5
1963(昭和38)年4月25日(木) 唐桑につながるもの5 ~懐かしむ唐桑行脚~ 時は惜しみなく流れて、昭和三十二年になった。私は大島中学校の校歌を書き、芥川也寸志氏が作曲された。このとき、小松勝吉校長から送られた資料によって、鹿折と浦島の校歌を巽聖... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの4
1963(昭和38)年4月15日(月) 唐桑につながるもの4 ~消えやらぬ文学熱~ 昭和十一年も六月になった。いつまでもこうしていてはいられなかった。何とかせねばならなかった。かねて語り合っていた准教員の試験を受けに、私より二年若い近所の村上初助君と... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの3
1963(昭和38)年4月5日(水) 唐桑につながるもの3 ~水産学校時代~ 大正七年の四月、みんなより十日くらいおくれて、私は水産学校に入学した。授業料は三十銭で、浦の浜と気仙沼の間を往復する船賃も、月額が同じ三十銭であった。 もともと私は水産学校... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの2
1963(昭和38)年3月20日(水) 唐桑につながるもの2 本紙創刊号の「唐桑領歌」で、私は”唐桑は祖父が出生の地”と書いた。唐桑と私を結びつけるもろもろのうちで最も重要なのは、この血のつながりであろう。 祖父は千葉の家の生まれで、幼いころ養子にきた... -
地方紙への寄稿
からくわ民友新聞 唐桑につながるもの1
1963(昭和38)年3月15日(金) 唐桑につながるもの1 私の家が火事で焼け失せたのは、私が生まれた前後の事情から推して、明治三十六年の十二月頃でもあったらしい。原因は子どもの焚火だと老人たちはいい、近所をはばかる口ぶりではあったが、はっきりした...
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